連休最終日。わずかながら活字を読み、ちまちまとメモを書き、使わないネットサービスを解約したり、あまりよろしくないことになっているセキュリティ周りを思い切って整頓したりした。ほとんどはバーチャルな作業なのに全く整理が追いつかず、作業を半ばまで進めたところで今日はストップ。食いしん坊なので何を食べるかを考えているだけで文字通り日が暮れる。
生活にはマイナスを0未満に軽減するタイプの作業が多く気が滅入るが、そういうものを見て見ぬ振りしてきた何年分かの蓄積が滞留して大変なことになっているのが今なので、つべこべ言わずにやるしかない。負の行為の蓄積も正の行為の蓄積のなさも、一回一回のやる/やらないの選択は本当に簡単なのに、気がつくとそれらの無数の差異の先にある結果がちゃんと無視できない大きさで目の前に現れる。あの時手をつけていればなくてよかった出費も、これまで続けていたら至れたかもしれない高みも、折を見てちゃんと自分の前に姿を表してくれる。律儀なまでに。因果に心があるとしたら、実にいい性格をしているんだろうなあ。
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言語思考があまり働かない日々を過ごしているため、自由詩の朗読を続けている。私は短歌を音とリズムの表現形として扱うことが苦手だから、その感覚を少しでも開発し、受け取れるものや表現できるものを拡張したいという意図もある。繰り返し読んでいても、日によって発話の調子やニュアンスが変わり、それに伴ってか作品の響きや自分への届き方が変わってくるのが興味深い。良き作品とは、そうした単純なやり方の試行であったとしても鑑賞の量的圧に耐えうる強度を備えているということなのだろう。
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昨日訪れた福田平八郎展について、もう少し感じたことを。
一つには、表現者の生涯を作品を媒介にたどっていく中で、一人物としての印象や肖像を自分の中に立ち上がらせる感覚を獲得できたことが新鮮だった。もともと熱心に美術をやる方ではなく、また音楽でもサブカルチャーでも長らくジャンル史や人物史といったものに興味が持てないほうだった私にとっては小さくない変化であるが、それは自分の関心や向き合い方、あるいは鑑賞態度(それも基本的なことかもしれないが)に起因するのかもしれないし、展示そのものが意図した設計だったのかもしれない。年代ごとの作者への解説、またそれらの周縁としての素描や写生集と実作品との間を行き来することで、手ざわりあるものとして作者の制作背景が見えてきたように思った。
またもう一つは、観察により得られる色彩や形態への絶え間ない驚きについて。写実に端を発し、本質を希求するあり方。
「昔から竹は緑青で描くものときまってるが、三年間見続けて来てるけど私にはまだどうしても竹が緑青に見えない」
「筍が一本の成竹となると、太さは却って却って細く引きしまってくる。水分が少くなって充実したものになる。色も年と共に変って行って、白っぽく枯れ色となって行く。竹の色は毎年変って行ってるのだ。だから一つの藪の中にはいろんな太さの丈があるわけになる。」
「…要するに、竹というと緑青、桐の花なら群青と、そこに古典化された伝統がある。そうした伝統を最初に作った人は、いろいろに研究してああでもないこうでもないと苦心した末、結局一つの色や形を突きとめたのだと思う。それまでの経過が非常に貴重な経験なのだ。夫れを唯伝統だからと言って、無反省に踏襲していたのでは意味がない。どうしてそんな色や形に昔の人が辿りついたかを、今の人間も一応は辿って行くべきだと思う。今のところ私には、まだ竹が緑青に見えるところまで行っていないが、だんだん推して行った末、或はいつかそこに辿りつけるのかとも思う。」
この言葉を体現する、《竹》を冠する一連の作品が好きだ。
一番強く刺激を受けた対象の色彩を追求する、そして、この色彩を追求して居ると、自然に対象の形を捉えることができる。
少しずつ眼差しを掬い取り、糧とする。