マシュマロの回答、以前に一部postの方を削除したのでこちらに載せます。思想の話なので。直接の回答した内容はリンクからどうぞ。
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言い訳のしようがなく人の好き嫌いには差があるほうで、むしろその激しさを外面的に緩和しようとして自分や関係やコミュニケーションの様式に歪みを生んできた人間であり、ここ数年ではそういう焼畑な振る舞いはなるべくやめようと主義に据えるようになった。深層演技が染み付いているから、対人接触の場面だけ切り取ると「心から楽しむ」ことができるんだけど、それは長い目で見たら自分という土壌ごと養分を献上するような行為だからな。そして多くの場合、割譲して痛みごと分け与えるようなgiftのコミュニケーションに応えてもらえるほど、他人という存在は自分に対して豊かであってくれるとは限らない。まあ関係の築き方というか前提というか、他者を捉える際の射程が少々deepで、多くを受け取る代わりに多くを与えるという様式をしていて、そのやり方はもはや変えられないところが大きいので、なるべく自分が消耗したり違和感を覚えなくてすむ人と関われると嬉しい。そしてそんな対象は現実の絶対数としてあまりいないとわかっているので、on-lineでもon-siteでも交友関係は希薄な方です。接触そのものは楽しく、尊い関わり合いだと思えるんだけど。
ソーシャルネットワーキング空間にプライベート意識の多くを置かせてもらっているので、タイムラインはシェアハウスの共有リビングぐらいの感覚でいる。だから、部屋着で本を読んでいるときに隣に座られても困らない人たちです、ぐらいの言い方をしたら良かった。こういうところで言葉の使い方がアホで下手。
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まあなんというか、ふつうに字が下手なので、あまり詳細をドヤドヤと見せびらかすもんでもないなと思ってからはあんまり載せてないです。でもそう言ってもらえるのは嬉しい。長く続いているということはそれなりに楽しく継続的に効力感を得ているということだから、そうやって自分が熱を入れて時間をかけているものを同じように喜んでもらえるというのはね。共感の原理だ。
回答でも書いている通り、何かをきっちり管理しようとして、管理やルールのための心理または行動のコストが重くなって結局何もやらずじまい、という失敗を幾度となく経験してきたため、そういう部分に完璧主義を出そうと息巻く自分をいかにうまく宥め込むかが大事な気がする。ただこの話の前提として、私は実行力がなくかつ気分に左右される方なので、もしかしたら何かを決めてその通りに動くことを苦と思わない人からしたら、お前は長々と何を言っているんだという話になるのかもしれない。それはすごい才能なので誇っていいと思います。
あとは、記録と写経という話は、どちらも自分として重きを置いていることで、いつか言語化したいと思っていた。よくデジタルタトゥーだなんていうが、それだって事の本質は「インターネットでは痕跡が消えない」ことではなく「不特定多数によって記憶されていることは痕跡が消えにくい」というミームの原理の方にある。インターネットという器ではなく、それに参加している無数の人間の記憶の方に。だから、多くの注目を集めたpostは誰かによってまとめられて、時が経過しても常に参照できる形で公開され続けるのだろうけど、そこに至らないものが後々にも残存することは考えにくい。postだって人の気まぐれ一つでアカウントもろとも消されてしまうし、消えないにしろuserの名称もIDも変わるし、うろ覚えで内容を辿ろうにも本や作品ですらないただの文字の塊ならそれも実現しにくい。もっとも私たちの日々の体験は多くが記録に残せないものであるのだから、なにかを形に留めようとすること自体がナンセンスではあるのだけど、それでも、本を読むぐらいの量で日々触れている文字たちを、後から振り返ることができなくなるのは寂しいだろうなと思う。自分のためのものではあるが、そういう同時代の記録をとるという気持ちが一つにはある。
また、テーマごとに分けてはいないものの短歌だけは「後に残す」という目的以外でも定期的に書き取ることをしていて、それだけは別冊に分けて管理している。こちらは書くことと、それによって読みをすすめることに意味を置いているので、体裁もこだわらず好きに書き散らしている。言葉を読むことと書くこと・発話することには体験の質的に大きな違いがあり、皮膚や筋肉の動きごと内容を染み込ませると、より自分の肉体としてそれらに触れ、取り込むことができる。私は短歌を黙読するときに音やリズムを立ち上がらせるのが苦手で、目で一読するだけではその旨みを感じ取ることができない。そしてそれは短歌作品に限らずそうで、誰かの言葉を書き写すとき、そこには書き手のもつ文体の息遣いや思考のリズムが染み付いていて、それを少しでも自分のものにしたいがために手書きをしている。逆に、内容は興味深いけれど文体が好きではないこともあって、そういうときはなるべく影響が流入しないように意識をオフにして書くこともあるけれど、そもそも書き留める対象から外すことも多い。
如何せん作歌の量が圧倒的に少ないので成果が表れているかどうかはわからないが、言葉に肉体で触れるという意味でも、手書きという形態を止めることはないだろうと思う。私は内側に湧くものに乏しいから、外部からものを取り入れて、異化によってエネルギーを取り出す必要がある。