yonoharu
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限られた余白に何を描くか、という骨格は同じで、肉付きや表情や身じろぎのしかたがそれぞれに異なる。短詩というものたちは。

非定型の自由詩にしばらく目を慣らしてから短歌を読むと、与えられた音数の中で刃を差して傷をつけることを志向する点に特徴が感じられる。書き手が読み手に施すのは、毒を舐めさせることでも首を絞めることでも追いかけて罠にかけることでもなく、片手に握った刃で切り付けること、それだけだ。読み手は必ず31文字が与える時間のうちに傷に出逢う。その傷の形態や致命度はさまざまであり、死に至らせることを志向しないものもたくさんあるけれど、そのどれも、読み手が一作品の鑑賞に分け与える時間の限りを強く意識して刃を用意する姿勢が明確に非定型詩とは異なっている。必ずこのわずかな接触で決着する、仕留める、という肉迫が伝わってくる。

 胸をながれる昏くて熱い黄金よ秋は冒瀆にはよい季節 /服部真里子「黄金と饒舌」

黄金も冒瀆も、royaltyやsanctity、王や神、父性の権化としての君主が支配する世界に属する。損なわれない輝きを放つ黄金には胸の内という闇を映し出す逆説的な「昏さ」があり、冒瀆という行為もまた対象が冒瀆に値する十分な崇高さを備えることを認める。翳るほど眩しさを増す日の光が、冷え冷えとする空気との間に強い対照を描き出す秋という季節は、神聖さのもつ逆説性を擬えるのに適している。

胸に熱い黄金が流れることを思うとき、主体はどんなに厳かなきもちでいるのだろう。熱さと罪とが身を破り、溶けた金をこぼしながら生き絶える、美しい裁きの景が浮かび上がってくる。

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