雨がたくさん降った今日、帰る頃にはすっきりと晴れて空気が驚くほど澄んでいて、長岡の夏のようだと思っていたら本当にあの時あの町で見たのと同じ赤さで車窓の空が暮れていて、かなり胸がざわざわした。これも何かの縁かと思い、長らく見送り続けている夏の花火大会のあれこれを調べてみたものの、そもそも県外在住者は抽選に入れる時期が遅いし当然ながら宿も取れないし、車で行くにも土地勘ゼロで旅先のお疲れ真夜中に大大大渋滞を乗りこなすのは現実的ではないし、と考えるとせっかく膨らんだ旅欲が早くも萎んでくる。勿論それぐらい差し出したい価値があるとはいえ、わざわざタフアンドタフな時期を選んで行く必要はあるのか。旅程や段取りを組んで穴を埋めていくのはすこぶる楽しいけれど、自分の具体的な行動作業のキャパシティがそこまで大きい方ではないことを私はもう少し自覚した方がいいと思う。でも今日は仕事の集中が切れに切れていたから、山形で蕎麦を食べ放題して秋田へ北上し山脈を越え温泉を経由してどこかしらの太平洋へ至るプランを別途練っていた。東北は食と移動のスケール感が現実的にバグる感じがしていいな。近畿は海と山と街とが物理的に近いからか、長く暮らしていると自分に行ける物理的な可能距離が実際以上にとても短く感じられる。心と身体が窮屈。本当はもっと軽率に山を越えて海へ至ったりしたいんだけど、日頃の移動の密度を延長していくとなぜか行動する気力が残らない。観光の街から観光の街へ。仕事の行き先にも仕事を終えて帰る先にも日がな日中人が溢れていて、おいおいこっちは遊びで暮らしてるわけじゃないんだぜ、とやさぐれムードにもなる。近畿は狭い。JR京都線の車内も狭い。その上かなりスピードが出るのでいつかまた何かあるんじゃないかと思う。いっとき、人が突然何かに巻き込まれて苦しんで死ぬということにわけがわからないほど傷ついてしまい、電車に落ち着いて乗れなくなったことがあった。その記憶を辿って尼崎の脱線事故の手記を探すとまだインターネットに安置されていて、よくわからない悲壮と安心感の合いの子のような感情を胸の奥に得る(http://www.kysd.net/fuku42501a.html)。現代は人の心や命や死というものが肥大化していて、主観でいえばそれはなんらおかしいことではないのに、社会というか全体的な視点で見ればそれは困難なことなんだろうなと他人事のように思う。大勢の人の命が紙っぺらみたいな時代に戻りたいとかいうわけではないが、確実にそうではなくなっている時代において、どうしたら適切に私たちは理不尽に向き合えるんだろうか。……精神的窮屈さに圧迫される感じがこの頃とくに増してきた。少しずつ余裕を失っているのかもしれない。うぐ。
きょうは家庭料理とだしの禅問答本こと『だしらぼ』を購入し、しめしめと読みすすめ、腹ペコらしく夕飯を3段階に分けて摂った(一口しかコンロがないので炒めもの、茶碗蒸し、麺類と3度に分けて調理)。読んだ本の所感がすらすらと書けるほどの言語能力がなく、私はそういう高等な記事はしばらく書けないと思うけど、内容はとても面白いです。だしというものへの考え方、だしとなる食材への見方がまるまるっとインストールされて、料理への基礎知識という足回りが一段と強くなる。イナダシュンスケ氏の『ミニマル料理』の敷いた空気感があるね(ただし本作は彼ほどインターネット人格の方を向いていないので読み口に癖も雑味もなく、料理に少しでも関心のある老若男女に本当にてらいなくお勧めできる、かなり健やかな本)。イナダシュンスケの「啓蒙」にみられる、料理や味というものを情報や知識という捉え方の面から強化するやり方、私はこれを密かにサブカル的アプローチと呼んでいる。オタクの基本戦術は迂遠な暴力的な量の知識(Tips)への曝露により武装した頭で数多の作品をそれなりの深さで舐めていくことにあり、批評家ほど裏打ちされた体系的知の水脈がなくてもそれなりに「一味違った」面白い読み方ができることが一種のオタクの成功ステータスなんだろう。ネットの誰か起源の知識セットしかなく「本当は何にも詳しくない」オタクがその浅薄な身の上を嘆くpostが記憶に新しいけど、それは現代の情報環境に最適化されたオタクの等身像だからそうそう悲観しなくてもいいんじゃない、でもその類いの危機感を自家獲得できているのは更なる自己否定すなわち進化の兆しなんだろうな。ご覧、オタクの時代がまた流れていくよ。
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明日は社会性がすこしは戻るといいな。最小限に線の練習をして寝る。