yonoharu
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 ふしあわせが好きなくせにと言えぬままチーズケーキを鈍角にする /工藤玲音『水中で口笛』

他意はないんだけど「うたの日」でたくさん薔薇をとってそうな歌だと思う。下句の景の取り合わせ、そしてリズムのフォーマットが特徴的。世代を超えて愛される楽曲のよう。芸能。わたしは作者の歌に芸能の気配を強く感じる。友だち、フォロワー、読者、そういう見知った人びとに親しげに宛てる歌。詩的なサスティーンは控えめだけど十分にあって、読み手の欲しいと思った感傷に過不足なく届いてフィットする。それはとても人懐っこく、物分かりの良い響きである。

 いつのまに動画にされて野良猫に威嚇をされるわたしのつむじ

 ちいさいほうおおきいほうと呼び分けるちいさいほうの工藤がわたし

上司にはかわいがられ後輩にはいじられる若手社員のように、いつでもちょうどよく「みんなの期待」を裏切らない。芸能ってそういうものだ。見知った地元のタレントがいつものローカル番組に出て、いつもと同じノリでしゃべっている。彼らは、誰もに共有されている既存の文脈の外側に飛び出ることをわざわざしたりしない。ちょっと変わったエピソードを面白おかしく話すことはあっても、それは「みんなの期待」の内側に許容される中での「変わったこと」であって、真の意味で枠をぶち壊すようなものであってはならない。芸能はコミュニティの内側を楽しませる。すでにある期待や役割をなぞり、いつもの予定調和に収めて互いに喜びあい、確かめ合う営みなんだと思う。

エッセイや文体のイメージに引きずられすぎているのかもしれないが、作者にはどうにもこの「期待されたキャラクター」やステレオタイプを喜んで踏みにいく芸能然としたサービス精神があって、実際にそのふるまいを心から楽しんでもいるが、それと同時に小さくない違和感を覚えることもあるのだろうな、と、だいぶ余計めなことを感じる。

 ほにほにと訛るわたしを東京のあなたは「かわいい呪文」と笑う

 訛ってないじゃんと言われて無理矢理に訛るときこのいらだちは何

なんかこう、そのまんまの引用なんだけど。肯定的な歌にもそうでない歌にも、「訛り」や「東京」という語の背負うメジャーな意味合いをものすごく素直に引っ張ってきているから、たぶん誰に対してもブレなく同じ感覚が手渡せるんだろうな。その感じがすごく芸能的というかバラエティ的だ。個人的にはそういうケレン味を意識しないで読みたい気持ちがあるんだけど、全体的に広い方の文脈で言葉や詩情を取り回しているところは実際に作者の大きな特徴だと思う。「わかる」共感の感覚をベースに、ちょっとのワンダーを付与して受け渡している。語選びや歌意に飛躍が少なく距離が近く、万人にとって取り回しがしやすい。

 雨を涙に喩えることのあほらしさ 足を静かに砂浜へ刺す

ここまで書いておいてなんだけどこの話は本当に単なる好みの感覚でしかないので、正直読む価値はあまりないと思う。私は芸能の内側には入れない方の人間だから、内側に向かって「いつもの」を提供しあって笑っている姿に、どうしても居た堪れなさというか、居心地の悪さを感じてしまう。ただ、そういう芸能っぽい「わかる」ことを志向する歌の中に時々はっとする視点があって、それをかき分けるようにして探すのはすごく面白い。感情を胸に押し込めるときの、窮屈で苦しくて押し返されるような感じが響き合う。雨を涙に喩えないのなら、「足を静かに砂浜に刺す」行為は何の感情に擬えられるのだろう。グッと力を込めた後のように、歌の意味から手が離された余韻が面白い。好みですなあ。

 すずらんのふるえるように拒否をしてあなたの纏う沈黙を見た

感情からすっと手が離されている歌、そういう静かな佇まいが好きなんだろうね。私は。流れるように下句に流れる構成もシャープな印象があっていい。

 それからは薔薇泥棒としての生 死んでも薔薇泥棒としての死

連作「薔薇泥棒」が好きです。

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