メモ書きとしか言いようのないメモ。
鷲田清一氏の寄稿。東日本大震災の半年後。私でいえばかくある大学への入学前である。時代の節目、というか大きく生々しい出来事が起こった直後に著されたものには、そのときの時代の揺れ動く空気が密封されていることがある。その時を境にすっかり時代が変わってしまったというより、あの時はちょっと異様なムードが支配していたと、どこか身に遠く思わせられるような。もちろんここで伝えられていることは普遍的で時代や場面を超えて示唆に富んでいるのだけれど、それにしても確かにあの瞬間には、科学や情報やそれら「責任」に対して、誰もが恐れ慄く独特の雰囲気があったと思う。誰も知的責任を負えないとする頑なで臆病な姿勢と、その姿勢へのあきらかな不信感と。
コミュニケーションや対話というものの重要性が叫ばれて久しいが、とはいえそれらは短期的に見れば問題の複雑さを増大させるものである、という指摘が鮮やかだ。価値観も利害的立場も異なる人がそれぞれに口をひらけば、それだけ視点が増え、解決すべき課題や配慮の必要な条件が増える。立場の近い少数での話し合いなら、あるものを切り捨てることで事を穏便にまとめることができたかもしれないが、口を挟む人が増えれば同じことが叶わなくなるかもしれない(彼らは「それ」を切り捨てる事をよしとしない立場であるかもしれない)。
私は「正解のない問題」という言葉を不正確で実用に堪えない表現だと思っている。現実には正解が存在しないのではなく、各々の立場にとっての正解が無数に存在しており、その結果、何を選び取るかという決断に例外なく「政治的(党派的)」軋轢が付きまとうため、一意の答えを得ることができない。つまり対話とは、自分たちの党派が選びたいものを選ぼうとする時、「それでは困る」と声を上げて騒ぎ出す、いわば <じゃまな人たち> にもたえず向き合う、ものすごく泥臭い過程を意味する。そのプロセスに則り、単眼的な部分最適に止まるのではなく大局的に全体を見据えた上で、今ここだけでなく将来の私たちにとって本当に必要なことを選び取っていく。いや、誰もそう簡単には選び取れない道へ進むために、何度でも同じことを話し合い、根気強く他者に耳を傾け、気を宥め、どうにか納得してもらう。真にいう対話とは、そういう非生産的で気の遠くなる地味な道のりを言うのだろう。
この文章に出会ったのは偶然で、平田オリザ氏が別の記事で引用した「請われれば一差し舞える人物になれ」という梅棹忠夫の言葉が気になり調べたところ、同じ言葉をテーマに据えたこちらの記事に出会った。元は演劇的手法に関する内容だったが、思わぬ方に導かれて読むことができ、大変良かった。
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左:マネジメントとコントロールの違い。
プロジェクトマネージャーというものを考えるにあたり、そもそもマネジメントとは何をするものなのかと考えた。組織でいうマネージャーは「管理職」「管理監督者(労基法)」と呼ばれるが、「管理」という日本語から純粋に連想するのはmanageというよりcontrolの語だ(品質管理をQuality control、実験や統計における対照群をcontrol群と呼ぶ)。
その結果は上記の通りだが、manageは「手(manu-, mani-)」や労力を用いる、すなわち「手なずける」ことが語義の中心にあることがわかったのが象徴的だ。スマートなやり口ではなく、手づかみしてなんとか都合をつける。それに対しcontrolは支配や抑制など、権力を行き届かせて「制限する」ことが中心にある。
メモには書いていないが、日本語の「管理」を辞書で引いてみると、
全体を管轄し、一定の基準を保つように処理すること。望ましい状態を維持するために全体に渡って取り仕切ること。 (明鏡国語辞典 第二版)
とある。「一定の基準」「望ましい状態の維持」にはcontrolの性質が、「処理する」「取り仕切る」にはmanageの性質が含まれている。
ちなみに、「監督」は
人の上に立って取り締まったり、指図をしたりすること (同)
とあり、単純な管理とは違い「権力・地位」の要素と「取り締まる」「指図」という行使の要素があわせて盛り込まれている。確かに物事の管理をする人が必ずしも人の上に立つとは限らないため(保守管理など)、役職者などを「管理監督者」という二語の組み合わせで呼びならわすことは確かに必要だとわかる。「望ましい状態の維持」に責任をもち、さらにそのための働きかけや取り仕切り、指図の権限を持つものがマネージャー≒管理職(管理監督者)である。ただそのあり方には、「手を動かし、もともと思い通りにいかないものをなんとか手なずける」という泥臭い一面も含まれている。単なるcontrolでは「マネージャー」職として十分とはいえない、といい表すなら少しは含蓄が出てくるだろうか。
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近年の管理職(ここではマネージャー)の職務が「感情労働化」しているのでは、という記事。「カウンセラーみたいなことをしている」という実在者の声が象徴的。実際、私自身もそういうケアを受けられることで助かっている部分が多いが、本来の彼らの職務を考えた場合、専門的な訓練を受けたわけでもない人に大きな負担がのしかかっているという実態は確かにかなり歪である。事態が歪であること、すなわち予期されていないはずの感情労働(ケア)を管理職が担っているということは、同時に担い手である管理職自身が十分なケアを受けられる状況にない(そういう事態が仕組みとして想定されているわけではない)ということでもある。
そもそも感情労働とは、という解説も興味深かった。深層演技。