【「UN:Me」制作発表記念】マルチクリエイター・山中拓也のエッセンスを紐解く:第2回は動画発で盛り上がりを見せる「MILGRAM」「ネガハピ」
ゲームではないからこそのインタラクティブな仕掛けを展開
2026.04.24 18:00
続きものの記事を読みます。山中拓也さんへのインタビュー、第二回。
先日読んだ第一回は、なんていうか、過去のうたミル関連のインタビューで繰り返し語られてきた内容に倣う形で、そこまで目新しさはなかった印象。今回は、どうでしょうか。ネガハピはクリエイティブという面でも企画の売り方という意味でも、山中拓也さんが個としてやっていらっしゃる作品のため、外部インタビューという形で取り上げられることはあまりなかったんじゃないかな。その点、今回の内容には期待を寄せています。
山中拓也氏が企画・シナリオを担当するゲーム作品「UN:Me」の制作発表を受け、「Caligula2」以来のゲーム企画作となる同作の発表に至るまでのコンテンツに触れるインタビュー企画をお届け。
前回触れていませんでしたが、本シリーズ記事の立て付けとしては上記の通り。山中拓也氏待望のコンシューマーゲーム新作『UN:Me』の制作発表を受け、同氏のこれまでのコンテンツ来歴を振り返るという企画。だそうです。
*
さて、今回触れられるコンテンツについても簡単に触れておきましょう。DECO*27×山中拓也による視聴者参加型音楽プロジェクト「MILGRAM -ミルグラム-」。YouTubeを軸に展開される音楽メディアミックスコンテンツ、内容を簡単にいえば「裁判員裁判」であり「模擬監獄」です。視聴者は看守、対して囚人となる10人のキャラクターは「何らかの形で人の死にかかわった罪」を抱えています。看守は、囚人たちの抱える「罪」の心象を具現化した楽曲、ミュージックビデオ、そして視聴者の依代となる看守エスと囚人たちの尋問模様を描くボイスドラマを通じて、考察を行い、推理を行い、そして、彼らに対する「赦す/赦さない」を投票で決します。そして、投票結果によって囚人の監獄内の処遇が決まり、その先の物語がインタラクティブに、そして不可逆に変化する――という作品です。
そいえばこちらの作品紹介postで、ミルグラムのことを「音楽作品/実験」と称してるのが地味に好きです。「実験」。
山中さんはこれまでの作品でも、『アイドリッシュセブン』への提供シナリオ(『ダンスマカブル』)において「二者択一の選択」とそれに伴うルート分岐で「界隈を二分する強烈な賛否」を巻き起こしたり、そもそもがカリギュラ二作(Overdose / 2)でも主人公≒プレイヤーによる「選択」が物語の鍵に据えられていたりと、何かと「作品を受け取る我々」に対して選択を迫る、そして選択への責任を取らせる(画面のこちら側に安住させない、物語の当事者として巻き込む)ことを重視してきました。
ミルグラムもまた、視聴者による「赦す/赦さない」という選択が作品に影響を与えるという点に、それらと同じエッセンスが盛り込まれています。ただし、本作が他と大きく異なるのは、前に挙げた三作がアプリやコンシューマー用ゲームの「完成されたシナリオ」であるのに対し、ミルグラムは現実の年月とともに物語が進行するリアルタイム型のプロジェクトだという点です。現実の裁判の三審制と同様に3シーズンで展開する本作は、2020年にスタート、2026年に三審目が進行中。単純計算で1シーズンあたり2年ずつで進行しています。これは、メタ的にいえば投票結果に応じて「楽曲」が変化するシステムであり、結審後に楽曲制作や収録をすすめる必要があるため、このような長期スパンの展開にならざるを得ないのだと思いますが、いずれにせよ既に完成された物語を提供するゲームやアニメとは違い、連載漫画のように「制作と鑑賞が同時に進む」作品であることが特徴であるといえます。
プロジェクト進行過程では、看守である視聴者は「赦す/赦さない」の意思表示を行うだけでなく、その過程でさまざまな反応を示しています。このキャラクターの罪について、私はこう思う、彼はきっとこうであるに違いない、等等。制作者である山中さんはそういった視聴者の反応を具に観察し、そのリアルな反応を参考にシナリオを執筆する……どころか、視聴者の反応を直接的に囚人たちへ投与しているようでもあります(これは劇中でも仄めかされている点です。投票の結果「赦されない」とされた囚人には、彼らを「責める声」が聞こえてくる という描写があります)。
このように、作品は現実の我々に向かって施される「操作」であり、操作を受けて引き起こされる我々の「反応」がまた、作品を構成する要素として位置付けられる。そんな逆説的な連動性、環流、第四の壁の向こう側(=観客席側)を直接巻き込んだ作品展開を「実験」と評するのだとすると、非常に面白いですね。作品が実験であるというより、作品を受け取る我々の反応すべてが、実験として観察される対象(object)である、と。まさに「監獄実験」というわけですね。
作品を受け取る視聴者の反応が作品に直接、環流する。作品によって引き起こされる視聴者の反応が、作品を構成する一要素である。うたミルではParabolaが、そのような現実と作品のリンクを引き受けていましたが、それに先駆けて、作品と視聴者の垣根を超えて作用させる試みを大々的にやっていたのがミルグラム、ということです。
*
作品に関する予備知識としては、このような紹介で十分でしょうか。ここから、先の記事を順番に読んでいきます。
――「MILGRAM」は、実際の裁判の三審制がベースにあります。現実の裁判も、慎重に進めないといけないからこそ長期化が問題視される面もありますよね。「MILGRAM」も終わりが見え始めていますが、もうスタートから丸6年ですし、長期戦になるのは覚悟の上で走り出したんでしょうか。
山中:思ったより長期戦にはなってますね。でもそれも良いことだと思っています。視聴者さん自身の環境が変わるにつれ、囚人たちへの見方が変わったりするのも醍醐味だと思いますし。人が誰かを赦す/赦さないについて考える時、その罪だけを見つめられるかというと、すごく難しい。実際には自分と相手の関係の深さだったり、この人を赦したらあの人に迷惑がかかってしまうとか、誰かへの義理を通すことが別の誰かへの不義理になってしまうとか。そうした人間らしい感情とは切り離せないんです。とくに重要なのは「この人を赦し、肯定することが、あの人の肯定を否定することになる」という横軸なんですよ。それが人間のままならなさですよね。
ああ、面白いお話だ。下線部二つについて、補足しながら読み解きます。
「視聴者さん自身の環境が変わるにつれ、囚人たちへの見方が変わったりするのも醍醐味」。そうなんですよね。私個人は2025年の第三審からの監獄入りなので実は期間としては非常に短いのですが、先に触れた通り企画全体で6年、その間常に制作と鑑賞が同時に進行するという形式は、この作品を語る上でものすごく重要だと思っています。それは、囚人=人物に対する見方が変わる、愛着が形成される、ということです。
最初は、巷に溢れる多くの二次元コンテンツと同じように、各キャラクターのビジュアル、属性、声優キャスト、あるいは楽曲や設定の話題性など、表面的な部分に吸い寄せられたオタクが、つまりは「推せる」対象、消費の対象として彼らに接近したオタクが、彼らの罪、彼らの人間性について考え、論じ、選択とそれに伴う結果=運命を突きつけられるにつれ、だんだん他人ではいられなくなる。関係に、巻き込まれてしまう。人は、時間をかけて関係した相手には愛着を持つようになる。愛着を持つということは責任を持つということ、責任をもった相手は、この世にたった一人の存在になる。
「おれにいわせると、あんたはほかの十万の男の子とまったく同じような男の子だ。だからおれはあんたを必要としない。あんたも同じで、おれを必要としない。おれは十万もいる狐と似たようなもんだ」
「ところがおれがあんたと仲良しになると、おれたちは互いに相手が必要になる。あんたはおれにとってこの世にたった一人の男の子になるし、おれはあんたにとってこの世にたった一人の狐になる……」
「あんたは自分が飼いならしたものに対してどこまでも責任がある。あんたはあんたのバラに責任がある」
ーサン=テグジュペリ『星の王子さま』倉橋由美子[訳]
「人が誰かを赦す/赦さないについて考える時、その罪だけを見つめられるかというと、すごく難しい」。相手が、有象無象のそこかしこにいる「誰か」ではない、自分にとって関係のある相手である時、その罪の、自分の目に対する映り方は変わってしまう。「この人を赦したらあの人に迷惑がかかってしまう」「誰かへの義理を通すことが別の誰かへの不義理になってしまう」。「この人を赦し、肯定することが、あの人の肯定を否定することになる」。これは実際にミルグラムの展開で起こった、究極のトレードオフでした。誰かを赦すことが、別の誰かの生存を脅かす。それでも、すべての看守が同じ情報を得て十分な情報を持って、周りへの影響を十分に考えて投票をするわけではない、という部分も、重要なファクターだったと思います。通りがかった人が、楽曲やMVなど、限られた情報だけで是非を判断することもある。だってそれが「民意」だから。ミルグラムは、CDや有料アプリの購入に限らず、誰であっても投票することができるから。記事では個人に生じる「ままならなさ」が触れられていましたが、私は他の「私たち」全体で連帯的に意思決定を行うがために生じる「ままならなさ」、その両方の作用を思いました。
――…最初はもっと看守と囚人が一対一で対話するような展開だと思っていたんです。…「赦す」でも「赦さない」でも、どちらに転んでもいいように物語を用意しておくのかなと。しかし実際のところ「どの囚人が赦されて、どの囚人が赦されなかったのか」が、物語へダイレクトに関わってきています。
……
山中:…先ほどおっしゃっていただいた、囚人と看守が一対一で赦す/赦さないを決めるような、縦軸オンリーのタイトルであれば媒体はゲームがいいと思います。でもゲームだと実装できるルートにも限りがあって、どうしてもオミットする部分が出てしまう。
一方、YouTubeという媒体なら、膨大に存在するルートの中から視聴者に選ばれ確定した“正史”だけを形にするという形で実現可能なわけです。僕がやりたいと思う「本当に罪だけを見つめられるのか」という話をやるには、この形しかないんです。
引用の都合に沿って、順序を編集しています。
囚人ごとに「赦す」ルート/「赦さない」ルートを分岐させる、各人の結果が独立して決まり、相互に影響を与えないなら、2通り×10人分の結果を作ればよいという話です。これが文中で言われている「縦軸オンリー」のやり方ですね。この方法ならゲーム媒体でやればいい。プレイヤーは新規データを作って、囚人それぞれの「赦す」/「赦さない」の分岐を回収できる。
しかしミルグラムはそうしない。「ゲームだと実装できるルートにも限りがあって、」という箇所には理解が及んでいないのですが、私はもっと単純な視点から、たったひとつの選ばれた“正史”だけを形にするというのが誠実なやり方だと思いました。囚人や彼らの物語を「分岐を遡れるデータ」扱いしない、一回限りの選択を“正史”として受け入れるしかない、本当に生きている人間がそうだから。
山中:作業者としての僕らにとっての地獄なのは、10番目のコトコが終わるまで誰の運命も確定しません。すでに赦す/赦さないが決まった登場人物がいたとしても、最後まで終わらないと次の審判の内容を作り始めることができないんですよ。この人はこうなって、この人がこうなったからここが干渉して……というのを反映してお話を書きます、曲を作りますという。改めて、ものすごく変なことをしているなと思いますね。そんなゆっくりとした歩みですが、その分視聴者の方が選んだ“正史”はなによりも尊重されます。
先に述べた「プロジェクトが長期になるしかない」理由にも触れられています。出来合いの展開(「赦された場合/赦されなかった場合」)を用意しない、という覚悟。
――これは山中さんがキャラクターを中心に物語を描いていくスタイルだからこそ取れる手法ですよね。もちろん、ある程度の方向性というか、軸のようなものは決めてあるというお話もありましたが、ストーリーが前提にあったら絶対にできません。
山中:そうですね。先がどうなるか分からなくてもお話になるのは、キャラクターのバックボーン、思想をきっちり決めているからです。このキャラクターは、このシチュエーションなら梃子でも動かない。または、このキャラクターなら何があってもこういう動き方をする、といったような。キャラクターに環境を与えたら自然と行動が決まるイメージです。ストーリーがメインでキャラクターが後だと、この形はできないんですよ。
深く頷きました。キャラクターがストーリーに奉仕するのではなく、キャラクターに環境を与えたところにストーリーが生まれる。そのためには、キャラクターが自立して、ある場面を与えられたら自ら感じて考えて、その場で動き出さないといけない。そういう「生きた人物」を生み出せるところが、本当の本当に基礎的な部分ですが、山中拓也さんの作品作りの根本をなす部分だと思います。
山中:人の罪を赦す/赦さないということは、一見シンプルに思えるかもしれません。しかし自分の環境によっても判断は変わるし、その周りにいる人によっても変わる。この「MILGRAM」と5年間以上、一緒に過ごしてきた愛着によっても変わってしまう。そうした社会実験のような部分を皆と一緒に体験したかったんです。
時間が形成する愛着。社会実験のような部分。記事を読む前に触れた部分ですが、改めて、本当にその通りだと思います。
手前味噌ですが、私の過去postより、二つの話題を。
ミルグラムは「作品提供に時間をかける」ことで、読み手がキャラクターを「厚みを持って受け取れている」のではないか、という話。脚本や描写による演出とは別の次元で、キャラクターの人間味を増している。
人物を厚みをもって「描く」ことはできても、読み手に対して人物を厚みをもって「受け止めてもらう」ことは、作り手に操作できる範囲を物理的に超えていると思うのね それは作品が送り出された後の、読み手と作品のかかわり方の問題だから
ミルグラムは、それを可能にするために、時間の幅をもって作品/キャラクターを描き出すことをした 提供速度(提供のスパン)を引き延ばすことで、読み手と作品/キャラクターが接する時間を物理的に増加させた 提供の仕方によって、読み手と作品/キャラクターが長期に=時間的な厚みをもってかかわれる仕掛けをした 今、それがめちゃくちゃ面白いと思ってる
もちろん作品体験にリードタイムを確保すると途中で離脱する読み手も多いのだろうけど、それも含めて人間同士のあり方だ 疎遠になったり数年ぶりに再開したり ミルグラムは、キャラクターと読み手との関係を、物理的な手法で「人間的に」演出することを試みたのかな キャラクターを人間にする演出
脚本や描写でキャラクターの実在性を増すのではなく、作品提供の仕方=作品と読み手のかかわり方を時間的に引き延ばすことでキャラクターの実在感およびキャラクターと読み手との関係を強化する
それは作品の内容を超えたメタレベルの操作 ここに、ミルグラムの特筆すべき点があるように思う
@nouserthereis 12:54 AM · Nov 20, 2025
もう一つ。ミルグラムは、脚本や楽曲による「テクスト製」の物語であると同時に「メタテクスト製」の物語でもある、という指摘です。
書かれたもの(テクスト)が読み手に届けられ、読み手がその確定した痕跡を読んで何かを得る って、古今東西媒体が変われどずっと変わらない物語の体験のされ方だもんな 小説でも演劇でも映像でも音楽でも受け取り方の様式は一緒、つねに一方向的 誰かによって過去に書かれたものを読む
しかし人とのかかわりは「今」目の前にある人から何かを受け取り、反応し、それによって目の前にいる人の言動がまた変わり、影響を受け、その次の反応が新しく変わっていく それがテクストではない=過去の筆跡を介さない、生きたかかわり方
ミルグラムは、(広義の)テクスト量でいうと楽曲、MV、ボイスドラマと総量は決して多くない テクストではなくメタテクスト(企画としての経過時間、読み手が彼らのことを考えている時間、関係性)を通して作品の体験を提供している
メタテクストは過去の筆跡ではなく、常に今ここに新しく生成する
メタテクストとは、世間の意味合いとは異なると思うんですが、ここでは独自の概念として「テクスト=書かれた物語」に対置される「テクスト外の物語作用」を指しています。作品としての表現ではないが、視聴者に作品を味わせている要素。具体的にはpostで触れた「企画としての経過時間、視聴者がキャラクターのことを考えている時間、その時間によって培われる関係性」です。書かれたものを通して味わう時間が「テクスト製の物語」だとすると、その表現の外で、自ら作品やキャラクターのことを考えながら味わう時間が「メタテクスト製の物語」です。
ミルグラムには物語として「書かれたもの」というのは実はそれほど多くない。楽曲、MV、ボイスドラマ(あとは尋問の回答結果やアプリのタイムライン)。だけど、看守が囚人と付き合ってきた「6年」という時間の長さそれ自体(メタテクスト)が、彼らと私たちとのかかわりという作品体験を生んでいる。テクストではない部分=メタテクスト部分で、視聴者とキャラクターの豊かな体験が生まれている。という指摘です。
――そうした実験的な展開といいますか「MILGRAM」はあくまでも音楽プロジェクトとして、結果はどうあれ第三審まで囚人の曲は全員分が出るものだと思っていました。しかし最後の第三審が始まったところで「死んでしまったから曲が出ない」という、当たり前といえば当たり前の展開にちょっと衝撃を受けまして。「MILGRAM」を見くびっていたというか、いつのまにか全てが公平で平等だと信じ切っていたというか……。
……
山中:それこそ死ぬことになったキャラクターの役者だって、結果としてお仕事が減ってしまっているわけですが、それでも、失うことに意味を見出してくださって、最後のドラマを録る時は本当に力を入れてくれました。キャラクターの人生や思想を共有してるからこそ、納得の方が勝ってしまうというのがチーム全員にあるので、こういう無茶が通じているのかなと思います。
……「MILGRAM」のようにエンターテインメントであることを捨てる作品がどちらも存在していることに、すごく意味があると思います。
「エンターテインメントであることを捨てている」かあ。これは「商業的なメリット」に背いてでも、自作のやりたい方針をとる。具体的には、展開上死ぬべきキャラクターは死なせる、死んだキャラクターの曲はリリースしない、すなわち世に提供する“商品”を減らすという反商業的な選択も必要の上で選びとる、という姿勢を示していると理解しました。
この点には、私は少し違った角度から別のことを考えました。私はミルグラムのことを、表面的な演出のトーンでいえば「かなりエンタメに寄せた作品」だと思っているんです。キャラクターデザインも演技も、楽曲も(だってDECO*27だぞ!)ティーンなオタクに刺さりやすい味付け、馴染みの味付けをしている、というか。直近の比較対象がうたミルやカリギュラ2であるため、それらのキャラクター造形に比べるとかなり「オタクのウケを狙っている」感触があります。実際に二次創作の界隈を見ても、彼らに向けた企画グッズの展開を見ても、そういう受け取り方、楽しみ方をしている人が多い印象。
でもそれはコンテンツの中身の動かし方によって「エンタメの定型を裏切る」ための重要な前振り、落差を生むための助走だったんだろうなと思います。一見すると消費的なキャラクターコンテンツであるように見える作品で、骨太で苛烈なドラマをやる。エンタメの潮流の割と真ん中にありがちな表現のテイストを引き受けた上で、エンタメ的なご都合の売り方を捨てる。ミルグラムは、演出の上でもそういう挑戦をやっているのだろうな、と思いました。
山中:始めた頃は、考察がこれから流行していくだろうなと思っていたので、考察というものが抱える危険性や暴力性などを「MILGRAM」で表現したかったんです。
本来、流行するだろうなと感じたのであれば昨今の“考察ブーム”に乗っていくのが正しい商売だとは思うんです。そこに、考察がいかに暴力を孕むものなのかと突き付けていく存在が必要だと思うんです。本当に「MILGRAM」は商売性とはかけ離れた方向に進んでいるなと思いますけど、存在するだけの意味を自分たちの中でも感じ取れています。
これも、自分の過去postですが。ミルグラムの暴き出す、「考察」の暴力性。ミルグラムでは囚人の罪の内容が考察されるわけですが、「考察」をされるのは生身の人間であった時、彼らはいかに傷つくのか?ということ。それは要するに、Twitterで殺人事件について好き勝手に考察を展開する人たちの無邪気な暴力性のことだなと思いました。
私はミルグラムのこと、Twitterの「殺人」のニューストレンドから検索結果に飛んで事件内容も当事者もなんも知らないのにあれやこれや好き勝手に反応して「考察」して消費してその日のうちに全部忘れる最悪インターネットのあの構造を模したものだと思ってるんですが
現実のそれでも起こってるのは画面の向こう側、トレンドの向こう側、ニュース速報記事の向こう側にちゃんと生きて存在する「生身の人間」の人となりや経緯や事情や感情を無化して、我々が彼らをまるで「キャラクター」のようにしか捉えないという(あまりに無自覚な)暴力が本質だと思う
ミルグラムは本当にその構造を如実に再現した上で、ではどうしたら我々は向こう側の人を「生身の人間」として捉え直すことができるのか?という途方もない問いへのアンサーを──つまりは現代の最悪インターネットに生きる我々のかかった「呪い」の解除を、もしかするとクソみてえな現実に対する一縷の希望を、描いている 私はそう思います
@nouserthereis 10:44 PM · Jan 14, 2026
ミルグラムの囚人というのは、誰かが死んだ、その死に関わっていた当事者です。彼らはつまり私たちにとって、ニューストレンドの向こう側にいる「知らない容疑者(関係者)」に等しい。彼らは罪を犯した。では、その罪は何で、それは赦されるべきものなのだろうか?ということを、私たちは「看守」役として考察し、議論し、あまつさえ裁きを下そうとする。この構図を模しているのが、監獄ミルグラムです。
監獄の環境下で、彼らは様々な側面を見せてくれるようになる。看守は彼らのことを考え続ける。彼らは徐々に、ただの「知らない容疑者」から、私たちにとって顔馴染みの、愛着のある相手になっていく。
は〜……大事なことだからタグつけて言お #ミルグラム くん、囚人の呼称は名のみカタカナ表記、第三審MVや動画の最終ファイル公開時の呼称は姓名フルネームで漢字表記なの、本当に良い 彼ら彼女らが、“コンテンツのキャラクター”から“確かに人生をやっていた人物”になった、ってことだよね
その演出がさ 作品側が勝手にやってることじゃなく、むしろ彼ら彼女らを見守ってきた看守一同の認知に起こっていた変化を、作品側の表記の変化が追認する形、「腑に落ちる」形になっているのが、すごいよ まさにそういう認知の変化がこちら側に起こっていたのだと思う 長い月日を共にすることで
恥ずかしげもなく大袈裟なこと言う。これって魔法、いや、解呪だと思った。作り手による解呪。人物を、画面の向こうの「キャラクター」としてしか認識しない(認識できない)視聴者の目にかかった呪いを、解いたんだな。リアルな年月をかけて、彼ら彼女らとのかかわりを持たせることによって。
@nouserthereis 10:35 PM · Jan 14, 2026
おそらくわかりにくい言及なので、補足します。
公式HP等でのキャラクター名称は一貫して「名のみカタカナ表記」なんですが、第三審の最後、囚人の彼らの罪の〈真実〉が記載された「最終ファイル」内の呼称は、姓名フルネームの、漢字表記なんですよ。この演出は、彼らがいわゆる「二次元キャラクター」から「現実に生きていた人間」へ変わったことを示すと理解しました。6年という月日をかけて、キャラクターが人物になった。視聴者=看守の認識がそのように変わってきた。それは、もちろん視聴者の万人が実現しているわけではないから、作品が完全に「成し遂げた」というするのは勇足すぎるかもしれないけど。ただ私は、そういうことをしようとしているのかなと思いました。
*
ああ、面白かったです。記事を順番に読んでいたらミルグラムのパートだけで相当な分量になってしまったので、今回は一旦ここで区切らせていただきます。こっからまだネガハピの話もあるんだよな。うお。