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yonoharu
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雨のせいか出来事のせいかわからないが気持ちが沈み続けて何もできない週末だった。何もできないとはいいつつ、ここ1ヶ月はコンスタントにジムで走り続けているからか、不思議と絶望には至っていない。沈み込み方にすごく限度を感じる。心の芯まで痺れて立ち尽くすみたいなことにはならず、なんでかちょっとエネルギーが出ないな、という状態に留まっている。体を動かしていると精神が安定するというが、私の場合、波自体は変わらず谷だけが小さくなったという感じがする。本当はもっと沈み込まないものを想像していたんだけど、多分これはコンディションというよりも私のもつ器質的な特性で、変えられない方の形状なんだろうな。ままならないことが多い中で、自分なりの説明が自分に対して可能になっていく過程を味わっている。

本は買う瞬間が一番楽しい。なぜそれ以外の瞬間の楽しさが劣るのかといえば、ひとたび手に入れてしまうとそれらは「読むべきなのにまだ手をつけていないもの」というバックログの性質を帯びるからだ。残タスクは体に悪い。人は余白を失って楽しくいられるわけがない。だから、それらが興味の対象からやっつけるものに変わる前に素早く読んでしまうのがいいが、なんというか、何もかもがうまくいかない。そうやって煮え切らないことや停滞の気配を感じるとすぐに何かにすがりたくて本を買ってしまう。わかりやすい負のサイクルだ。さらに悪いことに、私にとって本とは内容を含めた体験そのものを買うものだから、なるべく物体である方がいい。私は、物体を動かして良い位置に収める動作がものすごく苦手だ。……考えれば考えるほど、私は、本を読むというその瞬間の体験以外には何も相性が向いていない気がしてきた。ただ、そういうことは本以外でも往々にしてある。仕事も、目的に沿って役割を果たすという一点を除きほとんどの面で向いていないと思いながらも、私はそれ無くしては生きていけないと思えるほど信を置いている。実際、社交も実務も全然向いておらずうまくできてはいないが、私にとって、外部世界とプライベートな情以外でつながり、明確な目的と役目を継続的に与えられるということは他のどんな営みにとっても替えがたいのだ。

量的な合致度は高くないのに、ニーズの核心部分がマッチするというただ一点の要素で強固に結びつく。そういう、どう見ても歪だけれど、それでいて必然的で代替不能、排他性の高い結びつき方をするものは時々存在する。愛とか、あまりよくない縁とか、人同士の関係にも見られる形態だと思う。どうしてその関係が成り立っているんだろう、と疑問に思う時、二者を結びつけるものは外形的または量的な観察からはわからないことが多い。

何もかけることがないけど何か書こうかな、と思って書き始めると、だいたい1,000字ぐらいに収まるらしいことがわかってきた。リンクを貼ると記載した文字数が表示されるのが面白くて眺めている。

現在、twitterをもっぱら人や情報とつながるためのインターフェースとしてのみ使う理由の一つに、出力単位によって思考単位が縮小されることへの危惧がある。たとえば140字前後なら140字前後の単位で表現する癖がついて、それ以上の思考の広がりが制限されてしまうのでは、ということだ。現に今も投稿を眺めていると、短い文字数で面白さを伝えるための効果的な構文がある程度定まってきているように思う。それは客観的にはインターネット言語文化の変遷過程として興味深いことなんだろうけど、自分がその型をまるごと呑み込むのは嫌だと思った。何かの色に一様に染待ってしまうこと、徒党や群れに加わることが好きではないんだ。

こんな些細な抵抗がメリットをもたらしているかはわからないが、少しでも、自由形で漠然とした空白に書き綴ることを続けていたいと思う。

@mecks7
労務と微熱 tw: @mecks7