yonoharu
·

うかうかしていると12月がやってきて、そうなるとすぐに苦手な年の瀬が始まってしまう。だめだ。私は急かされることや焦ることが嫌いで、時に焦りをもたらす問題そのものを目に見える場所から遠ざけることで一意的に解決しようとする癖がある。それが悪い方に噛み合うともちろん、ひどい先送り癖だとか、アクロバティックな論理で理性をやり込めるよう努めてしまうので、社会的に生きることを決めているうちはあまりそういう自分の人格には遭遇したくない。ないんだよなあ。年末年始の儀礼も挨拶もお約束ごとも、おおよそあらゆることが定型的なリズムとグルーヴによって正確に回されてくる感じが苦手だ。全員で巨大な時間の大縄跳びをしているみたい。目に見えるひとみんな、急にそこだけ真っ当に文化とノリと血縁地縁に沿って生きている感じがし出すのずるいよ。別にずるくはないけど。居心地の陸地がキュッと小さくなるのが目に見えてわかる気がして、少しだけ深みに潜って息を止めてやり過ごしたくなる。あああ、海外でも行くか。

今年のテーマの一つは産みの苦しみと誕生の歓びで、職を辞したり転じたり人と出会ったり言葉を捻り出したり写真や撮影の活動が一段と新たな局面に突入したり、どれも無傷で通過できることなんて全然なかったんだけど、それでもさまざまな機会を贈り物や期待やお誘いの形でいただけることがこの上なく嬉しいことだなあと思う。私は自分を、役目という器を用いないことには表現することができない。文脈や目的からまったく切り離された状態では、自分が一体どういうものなのか定義することも難しい。だから私的な人格や感情や関係によらず合理的に役目を引き受けられる仕事というシステムが好きで、そこには安くない責任や信頼という義務が発生するとしても、その対価を支払ってまで私は役目の中に自分を位置付けていたいと思う。それに、私にとって個人的な関係というのは多数を扱うには重すぎる。個人的関係は持ちたくないが、役目として頼られることのある間柄ではありたい。一定の目に見えるクレジットでもって、人とのつながりを担保されたい。

短歌や言語表現については、もとより何かをしていたわけではないのだけど、この1年では鑑賞にまで疑いが生じてしまい、シンプルに心のままに感じるということができなくなっている。然るべきタイミングを待てば、霧が晴れるようなこともあるのかな。とはいえ、ひとたび狩りの側に心を置いてしまった人間は、何があってもいつか必ず狩りのほうに戻ってくるらしい。表現しなくても生きていけたら穏やかだったろうにな。また、何かを著せるようなことがあればいいな。自分の中に、それ以外では鎮まりようのないたましいがある以上、必ず戻ってくると思う。

@mecks7
労務と微熱 tw: @mecks7