映画『牯嶺街少年殺人事件』を観た。題と、エドワード・ヤン(楊徳昌)の作品であるというのと、おい配信に来てるらしいぞ、というタイムラインのざわめきだけ確か数年ほど前に察知していた作品。こういうのって一応チェックはするんだけど、よほど重い腰をあげない限り実際に観ることがないんだよなわたしは。そういうサブカル意識の低さがだめなんかな。等と思いつつざっと数年は先送りにしていたのだが、ここにきて局所的な憂鬱のために識字能力と仕事が凪いだ一瞬を突き、今しかねえなとNetflixを契約して再生ボタンを押してみたらぶっ通しで4時間あるとはつゆ知らず、お、終わんないっすね……?の気分で観ていた。
最初の2時間ぐらいはずっと原語またはハードな翻訳体で小説を読む、あるいはニトリルの手袋で物をさわる気分で、いまいち空気に乗り切れない部分も多かったが、途中からは画面を満たす光の美しさを素直に受け取れるようになり、画の醸成する色の気配に目覚め、急速に魅了されていった。そして関係が動き、展開が動くその場面では食い入るように画面を見つめた。最初から尺のことを知っていたらおそらく相当な覚悟をしないと中盤を乗り越えられなかっただろうから、こういうふうになし崩し的に観てしまうのが結果、正解だったと思う。
たとえば原語や翻訳体の小説が読みにくい理由は、単に言語の情報処理上の摩擦というより、物語の前提をなす「大気」への解釈にあると思う。物語を体験として受け取るためには、背景に流れる環境音、風の質感、湿度や匂い、そういったもの全体に体を馴染ませ、鑑賞のベースラインを補正する必要がある。この作品ではどんな因果が働いており、それらに対し作中人物たちは/作品はどのように応答するのか。ある出来事に対し、彼らの感情は普通、どれだけの規模や幅で揺れ動く(ことになっている)のか。それらの揺れ動きは、どのような規模と様式で描かれるのか。実際にはそんな線形の問いと答えで記述されるものではないが、おおざっぱにいえばこういったことだ。
単に大小の軸でいうなら、出来事への感情の応答が大きいと「見えやすい話」、感情の応答をくっきり描けば「受け取りやすい話」になる(乱暴にいえば芸術〜娯楽の作風スペクトルにだって重ねられるだろう)。しかしこれが他文化の物語になるともう一つ、様式という軸が導入される。何に彼らの感情が応答するのか。感情の応答は、作品としてもどう描かれるのか。翻訳作品は、たとえ応答や表現の度合いが大きくわかりやすくても、様式が自文化のそれとかけ離れていると受け取りに一段別のコストが必要になる。それゆえ、特有の読みにくさが生じる。
小説とちがい映画は、物語の光景内部にダイレクトに観客=読み手を出現させるが、その場合であっても作品の大気(ベースライン)は実際の土地のように、ただそこにいるだけで感得されることはない。視覚や聴覚として受け取れる一次情報の手前、作品の「第0層」とでもいうべき部分に読み手がチューニングを合わせる必要がある。ただ読むだけでは掴めないから、神経を太く膨らませ、能動的な意識でそれらを掬い取る必要がある。もちろん小説と映画ではコストの絶対量は異なるが、様式への入り込みにくさは視覚でも言語でも、意外なほどに感触が似通っている。
本作も、物語は言葉少なに展開する。台詞やシーンは断片的、しかも肝心の夜のシーンは徹底的に暗く、そこに誰がいて何が起こっているのか、彼らが何を考えて動いたり佇んだりしているのかがしばらくの間、掴めない。「民國暦⚪︎年」とラベリングされる時代とその背景についてはいくつかの説明が差し込まれるため、私たちは言葉の上ではそこが「混乱と闘争の時代」であることを了解できる。しかしベースラインまでを精緻に受け取ることは難しい。彼らの感情、台詞と台詞の間を満たしている機微は、作品によりどう受け取られ、応答されているのか。場面は読み手のチューニングが成立する前に立ち替わっていく。観客に観せるためではなく、あくまでその場に暮らす人の速度で、作品が展開するためだ。本作、特に冒頭の翻訳体の小説然とした「読みにくさ」は、こうした本作描写の、彼らの生活速度への忠実さに起因すると考えた。
それと、そうだな。果たして、作品全体はここまで長くある必要があったのかというと、それは結局あまりわからなかった。通して観た感覚としては率直に冗長で、退屈さを感じる部分も多かった。だけど画面に眺めてきた時間の累積、それは、彼らの顔立ちや表情、仕草などが一見して各々のそれだと見分けられるようになったり、あるいは体温や気配が身に馴染んで、道端ですれ違うたびにあっ、と名前を呼びたくなるような愛着につながっていて。時間によって厚みを増した〈読み手〉と彼らの関係が、最後の一点に凝縮し、凝縮し、そしてあの瞬間、滴がしたたり落ちる瞬間の鈍い衝撃に結びついたのだと思う。そう、所詮は月並みな表現にしかならないのだけど、わたしはあの時代を、彼らに訪れた数々の昼夜を、確かに共に過ごしていた。それらは、本当は何にもつながらない、ただの時間であるはずだった。事が起こったその夜、彼は呆然と立ったまましきりに何かを口走っていて、それはがらんとしたいつもの引きの画で、街の通りに人が過ごす平凡な様子が映されていて。その中にいる誰かが、だんだん、事態に気がついていく。いつも着ている服に、温かい血液が染み出してくるみたいに、少しずつ、少しずつ、無音のうちに事態が分かりだす。それが発覚するまでの時間の、長いこと。……いい演出だった。映画全体の実質の分量でいうと、事態そのものにかかわる部分というのは本当に多くない。だから、そのシーンだけを切り取って「味がした!」と嬉しそうに話し出すのは、本当はフェアじゃない。ただ、それまでの彼らを映してきた画が、ずっと引きの端正な構図を多用していたから。ああ、この期に及んでもなお、それと同じ手つきが使われてしまうんだな。ということに私は、後から深く納得をしたのだった。
夜間学校の話だから、景として量的に印象に残っているのは亜熱帯の、うっとりと肌にまとわりつくような夜。粘性のある闇、水中を泳ぐ質感。学校に隣接する映画スタジオから盗み出された懐中電灯は、最終盤の「女が自決に用いた」と思しきあのナイフに取って代わられるまで、主人公の重要な得物として、夜に向かって取りまわされている。だけど一転して陽が明けてしまえば、薄く均質な布を一面にかけたように、画全体に淡い、なめらかな光が溢れだすのもいい。台北の朝という朝は、そうだな、確かにこんなふうであった。どのカットも謂れなき夢のように美しいのだけど、バスケットコートなど、室内に差し込んでくる自然光の感触はとりわけよかった。襲撃のあった食堂の、パステルブルーとピンクのテーブルクロスに彩られた空間。校庭を取り囲む回廊のなす影、空中に気根を垂らし込む街路樹のガジュマル、それらの隙間を縫うように差す光。不自然にまで広く薄暗く、埃のにおいの立ちこめる取調室。医務室、クリニック、教会を取り囲む木造のシルエット。
完璧に撮られた写真、そのなかを被写体が動いている、としか思えないカットがいくつもあって。ほんとうに、光の捉え方が贅沢なフィルムだった。
A Brighter Summer Day. まぶしく、だれにも取り戻せない夏の陽光。