戦いの類が得意ではない。その時の心理的段階にもよるのだけど、何か策を講じたり他人に打ち勝ったり、とまではいかなくても、その場で堂々と相手を迎え打つということに自信をなくしてしまうことがある。戦いに向かっていく人たちを見るのもどことなく苦手だ。賞レースや試験、ホワイトカラーのビジネス、強者になる方法論やテクニック、それらについて勝つための知識や対策を「知っている」人たちのまとう、堂々とした、ちょっといきれのするあの感じがとても苦しい。こうしたら勝てるから、という講評もそう。なんか気がつくと学生時代も現時点の仕事も、短歌という形態も、なんらかの競い合いに巻き込まれがちな人生を送っているのだけど、本当に望んでいないし向いていないと思う。非効率でも不確実でも、私は、綺麗な蝶を夢中で追いかけているうちに気がつくと見晴らしの良い山に登れている人生がいいんだ。多少ペースに無理をしてでも、馬群に呑まれてもみくちゃにされるよりは逃げを選びたい。
仕事をしていると、やはり目下の論点は期待とそれに対する成果であって、登り方やスタイルは人それぞれ個性があって構わない、成果を出せるならいろんな人がいていい、と思える場面と、いやそれでも結局は勝ち負けにこだわり、強烈にキャッチーな行動をバシッと決められる人が汎用的なビジネス強者だ、と思う場面が交互ぐらいにやってくる。しかしまあ、こういうつまらないことを考え出すのはそもそもが良い状況ではない。意識のうち効力感や自信のなさが優位になっている。得意の感覚を引っ張れず、苦手に傾いているだけだ。心の底にはずっと勝ち負けへの敵わなさの感情が沈澱している。ただ実際になにかの勝負事について全然手が出なかったことの悔しさや悲しさの記憶というのはそんなになくて、どちらかというとその手前、勝ち負けを決める戦いに向かってもみくちゃにされる馬群の感じ、身動きが取れず前の人が蹴り上げた泥をかぶってしまう感じ、あるいは、数多いる競争相手によって自分が意識されることの居心地の悪さがずっしりと響いている。脅威に思われても思われなくても、攻撃性があってもなくてもひとしく嫌だ。結果の勝ち負けではなく、それを決める競り合いの気持ちの渦に巻き込まれることが心の表面を激しく摩耗させる。
一般にいう良い行動特性とは、素早く行動して結果を出し、できるだけ早くそして多く結果に対する評価から学ぶことだという。そりゃそうだろうなという気持ちと、そもそも結果や評価という競り合いに気が向かない場合にはやはりそれなりのビハインドを得ているんだろうなという気持ちが同時にやってくる。そういう意味で、気にしないタフさがあると機械の具合を気にせず回転数を上げて試行回数を稼げるわけだから、そういう人はより向上全般にむいているんだろうなと思う。
働くにしても作品をつくるにしても、私は情緒のマネジメント(=宥めすかし)が最大の課題なわけで、こうなっている時点で防衛には失敗してる。単純に苦手に向き合う必要もあるんだけど、どうしたものか。なるべくポジション取りを工夫したり、あとは苦手工程を外注して少しでも競り合いの気配から身を離すようにしてるんだけど、どうにも。前の上司が「大人の学びは痛みを伴う」って話していて、ああその通りだなあと思う。何もそれ自体は痛いものじゃなくても、自分の堆く積み上げてきたものの前では、そうじゃないものや考えに触れることはそれだけで温度差によって痛みになる。青くて難儀だな。選択を重ねれば重ねるほど、自分とは違う方の選択に違和感をおぼえてしまう。オルタナティブなあり方を痛みと思わないほど達観できるまでには、まだまだ時間が必要だ。傷への赦し、寛容の難しさを思う。