希薄で透明で限りなく無害なはずの感情がいつの間にかコップを満たしてしまった。それは特定の対象というわけではなく、私から他へ放射状に伸びる関わりというものそれ自体に紐づく感情である。原理的に人と関係することに向いていない。関わる、自分を知る他者からのぼんやりとした視線と意識が立ちこめる場に身を置くという行為において、私には常に最小限度の消極的嫌厭が付きまとう。つながるというだけでどうしてか生じてしまう、この真綿で絞められるほどの苦しさをふと自覚した時、私は何のために毎時それに耐え続けているんだろうと思った。一切関係しないで生きていけるほど堅牢な人格であるわけでもないのに、ちょっとした情けでも関心でも興味でも惰性でも何かしらの端緒を持ってもらえていることは他に替えが効かないほどありがたいことであるはずなのに、どうしてか硬い頸木があてがわれているような落ち着かなさと苦しさに支配されていることに気がついてしまった。なんかもう全然ダメだ。本当の意味で根源的な部分に社会性、いや社会耐用性が足りていない。勝手に毒の混じった水を常飲している。何かしらの気分的な問題、一時的な錯迷であるという可能性も否定できないが、比較的正気な時期にしばらく渡って同じ感情が出現していたのでこれは置かれた状況に対するしかるべき反応であるらしいと判断した。ああ。
この場に意図的に書かなかったが負担を大きく感じていたこともいくつかあるので、しばらく積荷から解放されて頭を冷やす。やることはこれまでと変わらない。読んだり受け取ったり考えたり、撮ったものを載せることはあまり期待できないが、変わらずそのようにすると思う。どれだけあるかわからないが、私の発するものについて何かしらの好意的な思いを抱いてもらっていることがあるとしたら、それはとても嬉しく思っています。