基本的に省エネで生きている。
というのも、私は他人に比べていささか全体のエネルギー量が少ないのだ。仕事帰りに寄り道する元気はないし、休み時間は暗い部屋で静かに眠りたい。そのため、あんまり人に対して激しい感情を抱く機会もすくない。そういう人間なので、稀に「穏やかでいいよね」と言われることがある。確かに結果的には穏やかな方ではある。
実際私は自分のこういう性質は嫌いではない。あまり激しいトラブルの真ん中に居続けられるほどメンタルも強くないので、身を守る手段として有効だとは思っているし、人生のテーマの一つが「穏やかに生きていく」ことである以上、それには向いた性質として重宝する。
けれど、私に「穏やかでいいよね」と言う、どちらかといえば情熱的な方も、結構キラキラして見えていたりする。
大前提として、他人を変えようとするより自分を変える方が楽なのは間違いないと思うし、中にはエネルギーの使い道を誤ってどえらいことになっている人も居るとは思う。けれど、私の周りにいる、「怒る人」は基本的に、他人に興味があり、期待している人間だったりするのだ。
私は基本的に人との雑談が苦手だ。仕事の場を円滑にする為にある程度は頑張るが、ありがたいことに今の仕事は人とあまり会話しない日があってもそこまでは困らないので、やっぱりあまり自分からは話しかけない。
それというのも、他人に対する興味の薄さが影響しているのだと思う。他人が幸せであればいいとは思うし、困っているようなら自分にできる限りのことはする。感謝されるのは好きなので、それはあまり苦ではない。趣味の話や考え方の話など、好きな分野では盛り上がれるだろう。けれど、一方で相手のパーソナルな部分に対する興味が薄いので、髪を切ったか切ってないかだとか、どういう交通手段で来たかだとか、そういう何気ない疑問が湧かず、質問が生まれない。
相手が話し始める分には「そうなんだなあ」と思ってできるだけ真剣に聞いているつもりなのだが、こちらから疑問を投げかけることがないのだ。コミュニケーションが続かない。
私が怒らないのはそこの延長線上でしかなく、ある程度のことは「まあそんなもんかあ」としか思わず、怒りが湧かないということでしかない。穏やかだけど、多分ちょっと冷たいというか、優しくない人なんだと思う。極論自分が良ければいいだけだ。自分が幸せになるために他人も満たされていてほしいだけだ。
そう思っているから、時には激しく怒っていて、それでも結局より良い形にしようとあがいている人を見ると、そこまで悪い気はしない。そういう人は大抵人に興味があって、沢山質問をしている気もする。より良い形に持っていくために、みんなでニコニコするために、頑張っているのだ。それが上手くいかないとしても、それは暖かいものだと思う。
それに、きっとああいう人は、人が好きなんだろうなあと思う。だから慈悲深くて、見捨てられなくて、文句を言いながらも頑張ってしまうのだろうなあと。とても人情のある人だと思う。キラキラしてて、素敵だ。
けれど、時折そういう人が振り回されて疲れ切っているところを見ると、ままならなくて難しいなあと思ってしまう。どうしたって情熱的な人は他人との衝突も多い。他人に期待すること、他人に興味があるということは、トラブルを招くことだって多い。
人と人が繋がろうとすれば、形を合わせるために角と角をぶつけてお互いに丸くなっていくしかないのだから、ある種必要なトラブルなわけだが、良くも悪くも他人との関わりが浅い私と、たくさんの人と深く関わろうとする人ではそのトラブルの量が桁違いなのは必然だと思う。その分だけエネルギーは削られるだろう。それでも私の満タンより多いのだろうが。
穏やかに過ごしたいのなら、私のスタンスは間違ってはいないと思う。だが、他人に興味があって、人が好きで、期待してしまう人は、私にはない煌めきがあるのだからそのままでいてほしいなと思ってしまったり。一方でそうして摩耗してしまうのならある程度見方を変えてみる必要があるのかもしれないとも思ったり。
そうして色々と考えるけれど、結局私に言えることなどなく、せいぜい美味しいお菓子の一つを差し出すのが限界だろうなあという結論に達してしまうあたり、やはりあまり優しい人にはなれそうもない。