具合が悪いときは考えが悪い方向に転がる時がある。現在喉が痛くて、恐らく腫れているであろう私も例外ではなく、後ろ向きである。
こういう時は、虚無が襲ってくる。私は自分の社交的ではない部分に対してコンプレックスを持っているのだが、それが強火になったりする。人は人と関わりあってしかるべきだと思っているから、人と関わることに抵抗感があることに情けなさというか、申し訳なさを感じる。そして同時に虚無がせまる。
生産性がないように思えてしまうのだ。誰かに影響を与えることもないだろう自分について想像してしまう。こういう時、いつもはまったく気にしてない作品のクオリティについて悩んだりする。色んな事に才能がないことを思い出したり、誰よりもダメだという妄想に憑りつかれてしまう。やることなすことすべて意味のないような、ただ座って黙って時間が過ぎるのを待つ方が、ずっとましなような。人類のごく潰しであるような感覚がある。
一応、仕事場ではそこそこに役に立っていると思う。作品も見てくれてる人が居る。どちらの環境でも、声をかけてくれたり雑談に付き合ってくれる人間がいる。恵まれている。そして自分自身自創作を見るのが好きだ。だから冷静な私は「程度は不明だとしても多分認知が歪んでいるのだろう」と思っている。
何もかもがダメということはそもそもありえない。すべての能力値が最低値の人間を探す方が難しいわけで。人間は必ず偏りがあり、偏りがあるということは「得意と苦手」があるということである。すべてが苦手というのはありえないわけだ。因みに他者と能力値を比べるのではなく自らの能力値の中で一番高いことをやる事で全体がより上に上がれるという話もある。比較優位だ。ここから見ても、基本的には自分の一番得意なことをやるのが良いことは分かる。人との関わりが苦手でも、私は比較的得意であろうプレゼンやスピーチを頑張ればいいわけである。けれど、心はそれで納得しない。なんだか自分を世界で一番ダメな奴に仕立て上げて謝りたくなってしまうわけだ。
この歪みは「自分はダメな奴だからしかたない」という言い訳でもあるのではないかと思っている。「ダメだから、自分をちゃんと責めてるからこれ以上責めないで、許してくれ」という意図があるのではないかと思う。私は臆病で狡猾なのだ。だから自制をしていい人間でありたいと思うし、ネガティブな気持ちは上手に折り合いをつけたいと思う。
けれど、それでも、葬式に出る人間どころか、きっと式を執り行ってくれるひとのアテすらないのを思い出すとダメだ。人間は一人では生きていけないのに、人と関わることが苦手なの、バグだと思う。
理屈とは別のところに心はあり、心は赤ん坊のように言うことを聞かないから非常に厄介である。いつもポジティブなことしか言わない機械になりたいのになれない。いい人でありたいけど根が悪い奴だからすぐに悪い所が顔を出す。
自己否定が盛り上がってきたので、一度ストップをかける。
こういう時、自分の一番心地の良い風景を想像して、自分が一番心地の良い音楽を聴いてみることにしている。
私は青空が好きである。昼間の静かな町と青空にノスタルジーを感じる。お休みの日、きっと家族でお出かけでもしているだろう静かな住宅街をのんびり歩くのが好きである。誰かが世話をして咲かせただろう花も、どっかからタネが飛んできたであろう雑草が芽吹いているのを見るのも好きである。遠くから子供の声が聞こえて、楽しそうで、白い雲がこんもりと見えてるそういう風景が好きである。
そこにドビュッシーの亜麻色の髪の乙女とか、サティのジムノペディとかそういう曲を少しだけ小さな音で流して、風を身に受けながらぼんやりと歩いている時間が好きである。穏やかで静かでちょっと薄暗い場所が好きだ。静かに静かに過ごしていたい。
虚無から解放されるまで、少し休憩をしようと思う。