当たり前ができない

わちこ
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しずかなインターネットさんなので、しずかなときに書きたいことを書く。

前回、だ〜〜〜〜れにも会いたくない時があると書いたが、別に誰にも会いたくないわけではないよなと思い直している。人には会いたい。ファミレスで10時間くらい誰かと喋りたい。

ただ、やっぱりTwitterをぼーっと見ていると、私にとってとても不自然で、大変な葛藤をしなければ手に入らないものごとを「当たり前」としている人たちが多くて、それは自分が大切だと思っている人たちにも当てはまることで、年々そのズレがつらくなってきてしまっている。

拗らせているというならばそうなんだろう。でもこの拗れをどうしたら良いのか分からない。ひたすら自分が悪いのだ、人と違う感覚の自分が悪いのだという気持ちになる。

人はとても好きだ。誰かと話すのは楽しい。お出かけするのはもっと楽しい。人と会話して知らない物の見方を知ることもとても好きだ。いつか心の底から誰かを思いっきり信じてみたいという気持ちはある。でも、特別な誰かを作ろうという気持ちがあまりない。

70億人と友達になりたいし、全くどの部分も通じ合えない人の方が少ないと思っている。でも、自分で新しく家族をつくろうとか、恋人がほしいとかは積極的には思ってこなかった。自然な感情じゃなかった。

多分ここが自分のクィアな部分なんだと思う。信頼できる人と一緒に生活はしてみたい。子どもと一緒に生活してその成長を見てみたいという気持ちはある。でも、どうも踏み出せない。恐怖が勝ってしまう。

恋バナとか本当につらいときがあったな。今はなんとかスルーできるように努めているけれど、未だに「気にしないように努めなければいけないもの」が恋の話である。恋愛を扱うフィクションは好きだ。

自分がうまく成長できなかったからこういう風になってしまったのだという気持ちもある。ただ、今の家族がいれば良い。両親のためにできることを今はして、老後はほどほどの距離感を誰かと保ちつつ、福祉や医療のお世話になりつつも暮らしたいという気持ちもある。

これで良いんだという気持ちと、こんなんじゃだめだ新しい世界に行かねばならないという気持ちでもう何年もぐるぐると考えている。どうすりゃ良いんだ。

みんなすごいな。仕事して誰かを愛し尊敬して生活をする。次の世代にできることをする。当たり前とされていることをみんなやっていけているのにどうして私はできないんだろうか。

前回も書いたが「人並み」という言葉を聞くと、どんどん自分のできていない部分が広がって大きな穴になり、その淵から断崖絶壁の、下が見えない穴を覗き込むような気持ちになる。私は人並みではない。

その穴の中に飛び込んで二度と目を覚まさず起き上がることがないようにしてしまいたいけれど、それだと誰かを悲しませてしまうのでなんとか「人並みでない私」が広げた穴のふちで踏みとどまっている。そんな感覚がずっとずっとしている。

私がいなくなったら悲しんでくれる誰かがいるということは幸せで、そのために生きることは尊いことだと思う。だから生きている。この穴の中に落ちたら楽だけれど後悔はする。その感情がなんとか私を地上に留まらせている。

本当はどうにかこうにか現状を認めて穏やかに暮らしたい。なんで、なんで考えてしまうんだろうか。考えすぎだと自分でもわかっている。

幸い、フェミニズムに共感している方や、知的障害者のきょうだい児の集まりやARO ACEスペクトラムの人たちに出会うことができて、自分は一人じゃないと思えるようになってきた。

だからこそ、私は彼ら彼女らが本当に大切だけれども、今もファミレスに行って10時間話したいけれども、「人並み」を自然にこなせている彼ら彼女らと距離を感じるようになってしまった。自分で勝手に辛くなっているだけなのだがこれが本当に辛い。

Twitterを閉じblue skyを開け、こういうときこそ読書をするのが一番良いんだと思う。でもどうしても袋小路に入ってしまったと思ったときにはまたここに書きにくる。