ありがたいことに、たまにではあるが「文章おもしろいですね」と言ってもらえることがある。うれしい限り!至福〜!!
ただ、私は自分の文章がおもしろいとも上手いとも思っていない。勘違いしないでほしいのは、謙遜をして誰かに「そんなことないですよ」と言われたいわけではない。世の中にはおもしろい文章を書く人が腐るほどいる事実を知っているからだ。私はデイリーポータルZというサイトでいくつか記事を書いたことがあるが、ライター陣のレベルの高さに何度も打ちのめされて心が折れた。彼ら彼女らは文章だけではなく人間としても強い。
そもそも私が思うおもしろい文章というのは、例えが巧みであったり、描写力があって想像がしやすかったり、発想が奇想天外であったり、その人自身に知識や魅力があったり……などの条件が揃っている状態を差す。
私にはそれらの能力がない。人間としてもつまらない。それなのに、私の駄文をおもしろいと思ってくれる人が少しでもいるのはなぜだろうか?
少し考えてみた。そして、すぐに結論はでた。
ちんちんだ。ちんちんを出しているからおもしろいのだ。
もちろん身体的なちんちんではない。心のちんちんだ。自分をさらすことができるかどうかという心の話だ。あくまで心の話である。私の身体的なちんちんを想像した方、ド変態である。おめでとう。
文章のおもしろさは技術に寄るところも大きいが、どれだけちんちんを出せるかによっても左右されるのではないだろうか。自分の人生や自分の心をさらけ出せるかどうかがコラムやエッセイのおもしろさに直結している。
自分の恋愛話をさらけ出す人は一般的にはそれほど多くはない。マッチングアプリなどの話もそうであり、むしろ恥ずかしいと感じている人もいるほどだ。その恥部である心のちんちんをさらけ出すことができるからこそ、誰かの心には刺さるのだ。刺さる、ちんちんだけに。
さらけ出された文章に、匠なワードセンスなどは必要ない。自分の想いをつづっていけば自ずと誰かにはおもしろい文章になるはずだ。開放された心の文字が自然と飛び散っていくのである。飛び散る、ちんちんだけに。
ちょっと汚い文章になってしまった。ちんちんだけに。
ようは、ほんの少しでも心が裸になっているかどうかがおもしろさの差なのだ。ただし、注意が必要だ。ちんちんを出す行為はあくまで身内限定の閉じたコミュニティでのみウケる行為だ。他人からしたらただの汚いゾウさんである。赤の他人が私の文章を読んでも、ちんかすとして認識するだけであろう。
だからこそ、有名なエッセイストやブロガー、ライターと呼ばれる人たちはすごいのだ。心のちんちんをだすのがうまいのである。適切なタイミングと適切な空気を読む力で、すばやくちんちんをだしている。西部劇のガンマンのような早撃ちんちん露出だ。有名な文豪たちはみな極めて優れた変態なのである。
しかし、安心してほしい。変態は書き手だけではない。この文章を読んでいるあなたも変態である。私の文章をここまで読んでくれたあなたは、きっと私の心のちんちんに興味津々なのだろう。「あなたの文章おもしろいですね」は「あなたのちんちんおもしろいですね」と同義である。
さて、「心のちんちんをさらけ出している人の文章はおもしろい」という結論に至ったが、自分としては納得がいく結果だ。もし、文章を書いてみたいと思っている同士がいたら、ともに駄文を書き続ける仲間として立ち上がってみようではないか。立ち上がろう、ちんちんだけに。
というか、冷静に考えてみたら、心のちんちんだけじゃなくて、身体的なちんちんを出している友人がいたらやっぱりおもしろくて笑ってしまう。タイミングは限定的ではあるが、ちんちんを出すという行為そのものが笑いの根源なのである。
いやいや、心のちんちんという結論を出すには早計であった。間違えた、早漏であった、ちんちんだけに。
私の考えは間違っていたのだ。結論を変えようではないか。
私がおもしろいわけではないし、心のちんちんをさらしている人の文章がおもしろいわけでもない。ちんちんがおもしろいのだ。