「SNSでアピールするために行動している」という自責にかられる

megaya
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「今日は〇〇と遊んだ楽しかった」

「〇〇を食べた!美味い!」

みたいな投稿をしたときに、「自分はSNSに投稿するために行動をしてるんじゃないか?」という自責にかられることがある。

もちろんSNSに投稿するのは悪いことではないし、私は他人のそういった投稿を見るのが好きだ。ギスギスしたSNSの世界で、誰かの幸せな話題は心を癒してくれる。SNS is ハッピーであるべきだ。

この話はあくまで自我との戦いである。毎回ではないが、「果たして本当にSNSに投稿する意味があったのか?」と考えてしまうことがある。ああ、純粋無垢でハッピーな男になりたい……!

食べたいものを食べて、行きたいところに行くという行動理念ではなく、自分が幸福で充実してることを他人に見せつけたい気持ちが常に寄り添っている気がする。

今日、福島に来ている。友達との約束がドタキャンになってしまって、暇になったからなんとなく東京駅に行って、なんとなく福島に行くことにした。交通費と移動時間のちょうど良さと喜多方ラーメンが食べたいという考えだけで福島に行くことにした。

上記を決めるときに、Xに「ドタキャンされた!どこか行こうかな?」という旨のポストをした。投稿した時点ではなにも考えずにポストしたのだけれど、今考えれば「いきなり福島に行っちゃう行動力ある俺!ドヤ!」というアピールがしたかった邪な自分がいたのではないかと考えてしまう。毛布にくるまって身体をジタバタさせたくなる、なんと矮小な男なんだろうか。きぃ〜〜!恥ずかしい……!!!

ただ、冒頭でも言ったとおりSNSに投稿するのは悪いことではないと思ってる。投稿という目的があることで行動に繋がり、自分の世界が広がっていく。SNSが動機になるのであれば、家にいるよりも全然マシだ。

ただ、そんな建前は頭でわかっていても、やはり自我が邪魔をする。心の中のリトル自分が「はぁ〜、だっさ!SNSがなければ行動できない男になってしまったなぁ」と私に失望する姿が見える。そんな目で俺を見ないでくれ……

まあ、こうやって今書いてる文章もそうだしね。書いてる時点で、誰かに共感してほしいとか褒めてほしいみたいな気持ちが少なからずある。

こういった考えに至ったのは、LIGHTHOUSEという番組で星野源が「鍵アカだろうがなんだろうが、SNSに投稿してる時点で本音ではない」という発言をしていたからだ。

たしかにそうだ。投稿してる時点で、誰かに魅せるための意志が自然と宿ってしまう。というかSNSだけではないだろう。自分の想いを口にした時点で本音ではなくなる。本音を加工した言葉になってしまうのだ。信頼してる人に本音で話したつもりでも、あくまで他の人に話すより言葉の加工量が少ないだけだ。想いを形にした時点で、作品になってしまっているのであろう。

ということで、すべての文章は加工済みの作品なのである。今日ここに書いたような私のめんどくさい性格もすべて加工済みの手垢まみれの創作である。ぜ〜〜んぶ読んでる人を楽しませるための虚言だ。こんなめんどくさいこと私は言わないよ?ハッピーボーイだよ?すべてはフェイク。

本当の私の性格は、人と自然をこよなく愛し、毎朝起きたときに世界平和と周りにいる人の幸せを願っている純粋無垢で心の優しい爽やかボーイなのだ。みんなが幸せなら僕は幸せだよ!SNS is ハッピー!!