伊藤詩織さんドキュメンタリー映画を見て

meglab
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公開:2024/12/22

日頃から映画を見ることが好きで、オランダに移住した今も近所の映画館のサブスクリプションに加入して時間が少し空いたら映画をみる生活を送っている。非常にいい映画館で上映している映画のセンスも良く、きっとこの映画館がなかったらとっくに日本に帰国していたかもしれないくらい好きだ。

今回、「Black Box Diaries」という映画を見て、なんだかいてもたってもいられなくなって治安のいいインターネットで(大事)、気持ちを書き始めた次第である。

この映画は伊藤詩織さんが受けた性加害事件の一連に関して、被害者である伊藤さん自らがディレクターとなったドキュメンタリー映画である。

映画の感想を言うと、伊藤詩織さんが加害されて受けた大きすぎる傷に耐えながらも大きな理不尽に強く立ち向かい戦う姿には、陳腐すぎる言葉だが勇気づけられ、涙が止まることがなかった。1人、映画館で号泣した。男女問わず、多くの人に見てもらいたいドキュメンタリー作品だと強く思う。

日本で起きた事件だし日本で先に公開されてたっけな、と移住してから最近の日本事情に置いていかれ気味だった私は視聴後に調べてみたら日本での公開はどうやらまだらしい・・?(2024年12月現在)少し驚いてみた一方で、心の別のところでは「まあそうでしょうね、」と思う自分もいる。

時代も#Metoo運動なども経て全体意識が変わってきていると思うし昔に比べたらこういった女性の正しい権利を守るといったメッセージの映画などは非常に増えているように思う。(私が個人的に見過ぎているだけかもしれないが)でも、でもやっぱり日本の性加害に対する意識は低すぎると思うしこの映画が先に海外で公開されているのにはそういった理由があると思う。その辺に対するずっと感じていたモヤモヤをやっぱりどうしても書きたいなと思う。

この映画内でも出てくるが、まず性被害を受けた人がなぜ、誹謗中傷を受けるのだろうか。被害を受けている側であるのに、耳を疑うような内容を本人に送りつけていると言うことが本当に、本当にまず許し難い。当たり前だが、悪いのは加害者なのに被害者が更に攻撃を受けるというのは性被害ではよく起こっている現象だと思う。警察に被害を訴えても警察は被害者の申告した内容を疑われることから始まると聞いた。私はこういったことに対して勝手に常に苛立ちを覚えているのでポロっと友人たちに許せないな、みたいなことを言ったりすると私と同じ考えの人もいれば女性の中でも被害者を責める言い方をする人に会うことがある。再三言うが悪いのは加害者であり被害者ではないのに、だ。

性被害、という具体的なところから話をしてしまったけれど、性被害という出口の話ではなくてもう少し根底の部分の話をしたいのが本音なんだけどいかんせん文章書くのに慣れてないのでしっちゃかめっちゃかである。許してくれ・・・

私は本当に運がよく、性被害にあったことはない。ただ、「性的に搾取された」と思う経験は何度もある。それは私の意識や考え方、メンタルに大きな影響を及ぼしているし今もまだ苦しんでいる。もちろん、伊藤さんやその他性被害者の方が受けた傷や戦ってきた辛さとは比べ物にならないと思うが物事の大小で人の辛さは比較できないと思うし、物事の根底にある問題は社会に存在するもう少し全体的な問題だと思っているので私の苦しさは私の苦しさとして記載しておきたい。

多くの問題や歴史などが絡み合っていると思うが主に性的搾取が起きるときにあるのは①NOだと言ってるのにそれを受け入れてもらえなかった or ②被害を受けた側がNOと言えなかった の2つに分かれるように思っていて、伊藤さんのケースは①になると思うし私がパッと思いつく搾取された経験は80%くらいが②である。でも、②が許されてしまうとゆくゆくは①が許されてしまうのだなと最近思う

①に関してはNO means NO、これ以上もこれ以下もなく双方の合意がない限りは絶対に、絶対に行為が行われるべきではない。NOと言われたのに強行するもしくは合意を取らずに行うのであれば犯罪以外の何でもなく、これに関しては本当にしっかりと罰せられるべきである。ついでに言わせてもらうなら日本の性犯罪者に対する処罰はあまりに適当すぎる。性機能の切除もしくはそれ相当のことが必要だと思う。

今回話したいのは②である。NOと言い切れなかった場合である。これは日本から海外移住してよく感じるけど私含め、日本人はNOが言えなすぎる。まあ、NOまで言わなくても日本人どうしであれば察してくれる場合もあるので難しいラインではあるが、私が過去に受けたと感じる性的搾取を思い出すときに必ず感じるのは相手に対して赦せないといった気持ちよりも、あの時にはっきりとNOを言えなかった自分や笑って黙ってやり過ごした自分がずっとずっと赦せないのだ。

じゃあなぜNOが言えないのか。自分の勇気が出ないという性格上の話もあるけれど一番の理由は「万が一NOと言ったら都合の悪いことが起きるかもしれない」と思ってしまう構造の問題は大きいのではないかと思う。

「ここで嫌だと言ったら逆上されて怒鳴られたり殴られたりするかもしれない」

「ここで嫌だと言ったら明日から嫌がらせされるかもしれない」

私たちにはNOという権利が絶対にあるはずだしNOと言われた側はそれを受け止めるべきなんだが、残念な話だけどNOと言ったら何かしらこちらに不利益が生じることになるのでYesと言わざるを得ない場面がある。結構、ある。断ったら何か困ることが起きるかもしれない、と思う人が発生するということは前提として権力構造に何かしらの歪みがあるということで心理的安全性が保障されていない環境であるということだ。悔しくてもどかしい。

様々な立場の人が性別を超えて社会のためにどういうコミュニケーションをとっていった方がいいのか、話し続けたいよね、と思うし、意見がずれ続けても話し続けたい。

絶対にこれだけは言いたいのだが、性被害の話をする時に全女性は味方で全男性は敵!みたいに捉えられてしまうときがあるけど私には心理的安全性をもたらしてくれる素晴らしい男性の友人はたくさんいるし、その人たちの思考の深さや逆に男性が保有しうる暴力性みたいなものを深く考えてる人もいるから誤解しないでくれるといいな、と思う。性別の違いから来るの分断をうみたいのではなくていい社会にするために考えたいよね、っていう。

今回の映画を見て、私の過去に感じてきた搾取や友人たちが受けてきた同じような搾取を思い出していた。私の2024年のテーマは「過去と向き合う」だったのもあり、過去のいろんなことを思い出しながらあのときこうしていれば。という後悔と今後何を変えられるのかについて取り留めもなく考えていた。何が言いたいんでしょうかみたいな散文になってしまったけどもうすぐ日本に一時帰国するので大事な友人たちとこういったことももっと話せるといいなと思う。

早く日本での公開と、多くの人に見てもらえることを祈ります。