金色

meiica
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本棚から本が溢れている...

iPhoneから写真が溢れている...

最近、iCloudストレージが足りないですよという通知が来た。

写真アプリを見ると大学入学したての頃の写真から始まっているので、約6年色々撮り溜めている。

ちなみに20,805枚。この数が多い方なのかどうかはよく分かっていない。

単純計算すると年間約3500枚、つまり1日平均10枚、結構それらしい数字で納得感がある。

ストレージが足りないという通知が来てからはだいぶ時間が経っている。800枚くらいは同期されてない、つまり、これまでの自分のペースからすると約3ヶ月間放っておいていることになる。

わたしが考えた作戦はこう。とりあえず上から順に見ていき、なんとなく残しておきたい写真にはお気に入りをつける。そのあとまとめて全部削除である。

お気に入り選定作業のために写真を見返しながら、私はここ数年の自分の生活を眺めていた。

記憶のない幼少期の写真を見るというのは、断片的な景色と時間軸を改めて紐づける作業に近い。大体そういうときは、家族と一緒に見返していたりする。そしてつらつら思い出話がはじまる。途中で誰かが鉄板エピソードを思い出し、話す。爆笑する。思い出の擦り合わせ作業である。

わたしのiPhoneには18歳の頃から約6年分の写真が溜まっている。幼少期の頃の写真とは違って、写真を撮った瞬間のわたしの意図をその目線から多少思い出すようなことが可能なわけである。アプリの写真オブジェクトには日付・時間・場所プロパティが含まれているので、そのおかげで当時の自分が眺めていたことや考えていたことが、写真が点となって脳内で再設計しやすい。6年前のことも、空気の匂いまで思い出せているような気がする。

最近ふと思ったのが、結局、わたしは思い出に生かされてるんじゃないかということである。夢に向かって走るような前向きな話ではなく。

どちらかというと、もうすべてが嫌だなと思ったとき、思い出は、なんとなくまだ生きてみるかーという、数日先の自分を生かすための少量のガソリンみたいなものなのでは、ということである。

わたしは接客業をしていたので思うのだが、人は思い出話をしながら、だんだんと表情が変わってくるという様子があると思う。語り出すはじめ、右上を見ながら記憶を引っ張り出そうとしてくれ、こんな話をしていいものか、という恥ずかしげな表情をする。それでいて、思い出しながら最後、にこにこと笑う表情がめちゃくちゃチャーミングだなと思う。このひと今、何を噛み締めてるのだろうなー、と思う。

6年前の写真が一枚だけ現れることと、6年分の写真がずらりと並んでいるのとでは、意味が異なる。前者は、懐かしいねーとすぐに手に取る状況が思い浮かぶのだが、後者はおそらく、そんなに客観的になれない。

それは、この写真を撮った目線を含んでいる今の自分は、何を見て来て今ここにいるのか、というような地続きなつながりを感じるからだろう。6年間、3年前、5ヶ月前の自分が生きていたので、今の自分が生きている。同時に、6年前の自分の目線を脳内再生することで、今の自分が6年前の自分を生かしているような感覚も持つ。

6年前の自分が今の自分を作っているという捉え方もできると思うのだが、なぜかこの表現がしっくりこない。そんなにすべてを、今の自分が吸収しているわけじゃないだろう?という気がするというか。

6年前の経験を吸収した今の自分ではなく、6年前の自分と、今の自分はまったく異なる人であるというイメージに近い。そこに時間軸のつながりはあるのだが、何かを得て今の自分がバージョンアップされるというより、ただひたすらに自分が変わり続けている、という感覚に近い。

多分、わたしが成長という言葉に親しみを持てない理由はこのへんにある。「わたしはこの経験によって成長した」ではなく、「わたしはこのような経験を背景に持つ人に変化した」という言い方の方が自然な気がする。

この話をもう少しわかりやすくしたいのだが、どうしたらいいものか。似たようなことを考えている人が本など書いていないものか。

今のところ、私の思い出が数日先の自分を生かすための少量ガソリン思想を支援してくれるような材料は、Theピーズの生きのばしという曲だけである。たぶん同じような思想だと勝手に思っている。

というわけで、写真を眺めて思い出したここ数年のくだらない話をリスト化しておこうと思う。なにかあった時に思い出話として書けるように。

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