自分をケアする

meiica
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最近、『自分のために料理を作る -自炊からはじまる「ケア」の話』という本を読んだ

おしごとの関係で"ケア”という言葉について理解を深めたいと思っていたところ、先輩から教えてもらって購入した

"料理”とか"ケア”という言葉が目を惹くタイトルだが、冒頭40ページくらいで、今の私にピッタリな本に出会ってしまったかも、と思った

内容は詳しくは書かないが、この本に通底するテーマとして「料理と自尊心の関係」というのがある

自尊心は、「自分が他者の役に立てているか」「自分のやりたいことをできているか」「安心できる環境にいつもいられるか」という三本柱がバランスを取って成り立っているらしい

一つ目は他者の存在なしでは得られないものだが、残り二つは自己完結できる、そしてそれは料理という行為を通して達成できるかもしれない、というのが作者の考えだ

毎日違う気分や体調の自分に合わせて、その時の最適解を工夫し、自分にフィットした料理が作れた時、自分で手をかけて自分に返ってくる喜びがあると

そして、この嬉しさは、誰かから認められることを必要としない

「自分のために料理をするのがしんどい」と感じている場合、向き合うべきは料理の技術や知識ではなく自分自身かもしれません、という問いがあった

このしんどみの気配の正体を、自分の経験から少し考えみようと思った

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自分の快適さを目的とした自分の振る舞いと、他者にとっての快適さを目的とした自分の振る舞いがある時、人はこれらのバランスを上手に取りながら生きていると思う

わたしの経験では、子供ができてから、他者にとっての快適さを目的とした振る舞いがとても増えた

この、他者にとっての快適さを目的とした「私のことは一旦脇に置いてもらっていいので」という思考、振る舞いがどうやってデフォになっていくか

子供が生まれると、周囲の人は「おめでとう」という言葉をかけてくれるのだが、その後の再会の挨拶の冒頭はすべて、「久しぶり。子供は元気ですか。」となる

相手は話題提供としてこの言葉をかけてくれている

子供が少し成長して歩けるようになってきた頃、久しぶりに友達にご飯に誘われたり、帰省の予定を立てたりする

わたしは特に何も考えずに誘いに乗るのだが、「子供もくるならこういうお店がいいよね」とか「子供も連れてくるのかと思ってた。残念また今度だね。」みたいな会話がとても増える

こういう時に、「あ、そうか、彼らは子供に関心があるのか、そりゃあそうか」と、少しハッとする場面が何度があった

わたしの友人は子どものいない人がほとんどなので、子どもを夜の何時まで連れ回していいのか、などを想像する知識も経験もない。だから、何の悪気もない。ただ、この前提の違いによって発生する、私の中での「ハッ」という経験が少しずつつ意識を変えていって、基本的に私の前面には子どもが存在するようになった

この前、久しぶりに話した友人の一言目が、「最近仕事どう?」という言葉だった。なんだか妙に気持ちが明るくなったことがあった。この人、私の様子に関心があるのか、と、不思議な気持ちになった。

年始に地元に帰省したとき、私一人の帰省なので両親には特に知らせず帰ってきたということを友人に話した。「帰省するけど孫は連れてこないことを伝えると、理由を問われる会話が始まるのが面倒だから」と話すと、「そんなんことないよ、親はあなたにだけでも会えるなら嬉しいと思うよ」と、言われて、本当なのか?と思った

わたしがわたしの評価者であるとき、子どもとわたしは切っても切り離せない関係であり、私は自分よりも子どもの価値を高く感じるので、自分の価値が相対的に下がる

そして、なんとなくそれでいいという感覚がデフォになる

でも、他人から見えるわたしはどうか

子育てしながら仕事しててえらいね、みたいなふうに思われていると感じる。若くして産んだこともあるので、子どもが生まれる前のわたしよりも、周囲からの私の人間的評価が高まっているように感じる。だから、私から子どもを取ったら、私は別に大した人間じゃないな、とか思い始める

この、「他者から見るとご立派なわたし」という像と、「わたしから見た全然立派じゃないわたし」みたいな存在が、うっすらとずっとある

他者と自分の間には子どもがいるような気がして、私と子どもは切り離せない。他者とわたしの距離が遠くなったから?、他者からのわたしへの評価はすべて子どもを通して行われているから?

わたしから見える「他者から見える(子どもと一緒に存在する)私」は立派に見えるし、わたしだけが見える「(子どもと一緒に存在していない)私」は全然立派に見えないんだろうな

わたしだけが見える全然立派じゃない「(子どもと一緒に存在していない)私」をどうするか?

たぶんこれをどうしていくか考えて、なにかすることが、自分で自分をケアすることなのかもしれない、と思う

おわり