在宅勤務、終了時間の12時を過ぎても終わらないオンライン会議の画面の横で、大学時代の友人がいる。初めて訪れた私の部屋を物珍しそうに眺めて、本棚に飾ってあるいくつかの写真を手に取って見て、冷蔵庫に買ってきてくれたデニッシュを仕舞いこむ。私はオンライン会議の画面の前にスマホの画面を並べて「会議あと少しで終わると思うから、好きにしてて」と横にいる友人に送る。
ようやく会議が終わり、友人と狭いパソコンデスク越しに向かいあって、買ってきてもらった昼食を共に食す。ノンアルコールのスパークリングワインを片手に、最寄駅から私の部屋に来る坂道沿いにあるお店のピザ、最近テレビで紹介されているのを見かけたという卵サンド、駅ナカで買い求めたサラダ2種、食に関心が高い友人のチョイスはどれも素晴らしく、ちょっとしたパーティになった。
仕事の合間の昼休憩で、友人と最近の近況の話をする。彼女はこの春職場での職転に挑んており、滞りなく進めば校正から記者へと職種を変えることになる。そうすると転勤となるため、このように気軽に会えなくなるなと思いつつ、このあとのスケジュールを話し合う。このあと15時半、私の恩師のオンライン発表があるのだ。私は今でも変わらず、恩師を追いかけている。どこにいるかは関係なしに。
私はこの日16時半から会議があったのだが、他の先生方の発表は長引き、タイムスケジュールはほぼ30分ほど後ろ倒しに進んでいた。恩師の発表が始まったのが15時58分、会議前に終わるか終わらないか瀬戸際のタイミングだった。
それまで友人を横に猛烈に仕事を片付けていた私は、発表が始まるまで16時半からの会議までに見終わることができるか、不安と雑念と焦りでいっぱいだった。そのような状況で始まった恩師の発表を、1年ぶりくらいの恩師のリアルタイムでの声を聴いた瞬間、恩師の発表に、大学時代に、恩師が繰り広げる書物と思考の世界に引き込まれていった。「自殺」を主題に据えたシンポジウムで、恩師はモンテーニュの『エセー』の中で自殺の是非に関する一論を取り上げて分析したうえで、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』や、WHOの統計資料を基に自らの考察を披歴した。自殺という行為は、何らかの目的に対する手段だとするなら、その手段は有用であるために選択されており、またその目的は自発的ではなく外的要因に追い詰められて生まれるものが多い。「自殺の《有用性》と等価の《有用性》をもつ別の行為Yを目的Xの実現には有効であることを、自殺念慮を抱く人にそのつど積極的に提示する必要があるのではないか」という言葉で締めくくられた。伝統工芸品のように美しい論と、現実と強く結びつけられた思索と言葉で世界が構成されていって、全てになった。
発表は16時27分に終わった。16時半からの会議に入りながら慌ただしく友人を見送り、仕事に戻っていく。今の私の日常に。それでも、シンポジウムの参加者の中に名前を見つけた同級生と「先生のもとで勉強できて良かったよね」と連絡を取り合い、「あなたのSNSから今日のシンポジウムを知って参加できたよ」という後輩からの連絡を見ながら、私の中に経験として確かに積み重ねられているあの4年間で与えられた言葉たちの存在を強く感じた。