どこから、どうやって、何を書こうか。そう思わせるような濃密で静謐な旅から帰ってきた。中学からの友人の退職祝いのための二人旅だった。彼女が教えてくれた本を読むことに特化したある旅館のプランを予約して、品川で落ち合って2時間のカラオケの後に、東海道本線の鈍行に1時半間ほど揺られながら湯河原の地に辿り着いたのは昨日の午後のことだった。
東海道本線の車窓の向こうに流れていく景色はどこもかしこもちらほらと薄桃色に染まっていた。並木通りに行儀よく並べられた桜。霞む海の淡い水色に薄桃色を添える桜。湯河原駅に到着し、ホームに降り立つと真っ先に目に入る桜。駅から旅館へのマイクロバスの道中でも目の前に広がる山もパッチワークのように薄桃色に染める桜。例年より遅い開花となった桜たちは、私たちを祝福するような、新しい門出を象徴するような、この旅で一番印象深いものになった。
本を読むことに特化したプランということで、私は旅の前日に本屋に赴き、1時間ほどかけて2冊を買い求めた。そのほかも買ってから一度も読めていない本、改めて読み直したい本、読み始めては挫折した本など、計6冊をバックに詰め込んできたのに対して、友人が持ってきた本は1冊という、私たちらしいなんともアンバランスな二人なのだった。
私と友人は読書好きで文章を書き、口が悪いというところは同じであるものの、それ以外の趣味嗜好や行動パターンが同じというわけではなく(道中で話した映画と本の話ではものの見事に「私(相手)は見て/読んでいるけど、相手(私)は見て/読んでいない」という有様だった)、ただ、物事に対してひっかかるところや、気になるところ、感じることが同じで、一緒にいて居心地がよいのだった。
(「同じところと異なるところがある」というのは、自分と他人のすべての関係で言えそうなことだが、深く関わるようになる他人ほど「自分とは全く異なるのに、全く同じところがある」と感じることをもう少し明晰に言語化できないものか、と最近思っている。この友人は私のことを「(他人を写し出す)鏡のようだ」と観てくれているけれど、「鏡」というイメージを言語化のしっぽとして引きずり出せないものか、と思っている。)
そんな友人との、思い返してみると中学生の時からもう干支が一周回るほどの付き合いの中での初めての旅行で共に過ごす時間はとても楽しかった。ぽつぽつ、だらだら、わーわーと言葉を交わしつつ、同じ空間にいながらお互いに本を読むことに没頭することができた。
「本を読むことに特化したプラン」を教えてもらった当初は「本を読むなんて家でもできるけどな」と反抗的な気持ちがあった私だったが、実際に東京から少し離れた地に行き、周りには何もないような山奥の場所に(言ってしまえば)閉じ込められてしまうと、プランの効用を体感した。普段、本を読もうとするときにどれほど雑念が多いのか!延々に追いかけられるような連絡の通知、目に入ってくる洗濯物や洗い物から感じる家事の必要性、そのほか尽きることのない諸々のタスク…。本を読むとは自分と今いる場所から離れて、本の世界に入り込み書き手(主人公)の追経験をすることだと思うが、久しくその営みができていなかったと実感したのだった。自由気ままな乱読は、乾ききった土に染み込む水のようで、私の中にある種を芽吹かせてくれそうだった。
やっぱりあまり纏まらなかった。最後に、今回の旅のお供とした本たちを記録する。旅の前に恩師の最新のエッセイを入手することができ、そのエッセイを読んだことで、恩師と旧ソ連出身の知人にまつわるいくつかのエピソードに強く感化された選書となった。
くぼたのぞみ・斎藤真理子『曇る眼鏡を拭きながら』
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟1』
森有正『森有正エッセー集成3』
デカルト『情念論』
デカルト『方法序説』
大江健三郎『懐かしい年への手紙』(この旅をきっかけに何度目かの読み始めチャレンジをしたら、とても面白く読めるようになっていたことは感動だった。)