今日は仕事を早く切り上げて、母と共に中島みゆきのコンサートへ。2020年初めに「ラスト」と銘打ったコンサートが感染症によって中止されてから初めてのコンサートであり、私にとっては初めて中島みゆきの生の歌声を聴く機会となった。
思えば大学1年生の頃、大学の恩師が中島みゆきの大ファンで、よく授業でもその名を出していたことから興味を持ったのだった。
「中島みゆきのどこがお好きなんですか」と聞くと、「別の世界に連れて行ってくれるようなところ、僕はこのようなアーティストの方々を"巫女系アーティスト"と呼んでます」と返されて、「巫女系アーティストって…?」と思って彼女の歌を聴き始めてから早8年である。
同じく「巫女系アーティスト」の一人であったピアニストの内田光子のコンサートにも2年前に行ったが、その時に聴いた彼女のピアノの演奏と、今回聴いた中島みゆきの歌声には同じものを感じた。
それは、これまた恩師が教えてくれた葉山にある日本料理屋の「琢亭」で食事をしている時と同じ感覚なのだ。厳選された食材の旨味を最大限生かした調理によって生み出された芸術品を身体で味わう感覚。美味しいものを食べていると同じように、耳で美味しいものを味わっている、摂取しているという感覚になる。歌声が豊かで滋味深いのだ。自分の中が明るく温かい力あるものに満たされる感覚。
それに加えて、中島みゆきからは身体の力を感じた。歌声だけでなく、彼女が両手を天に広げると、そこには世界が、宇宙が拓かれるように感じるのだ。これが「別の世界に連れて行ってくれる」感覚か、と8年越しに恩師の言葉を感覚的に追体験したようだった。彼女が身に纏っていた赤いドレスのひらひらとした縁が彼女の動きに合わせて揺れ動く様に勇ましさを感じるのだ。世界の美しさ、人間の生み出すものの力強さをありありと感じられて、この世界で生きていて良かった、とさえ思った。この世界の醜さや、暗さ、不自由さを悲しんでいる私であるのに。
アンコール前、本編の最後の締めは新曲である「心音」という曲だった。
「未来へ 未来へ 未来へ 君だけで行け」
そのように繰り返されるサビを聴きながら、今週ずっと頭の片隅にある「自分の子ども」という存在とその可能性についての考えがぱちりと決まったように感じた。
会社の女性の先輩や女友達と話す中で、私はずっと「自分の子ども」について否定的であった。現在の社会は新たな命が生まれ育つのに相応しい場所ではないと思っているからだ。私はなんとかその社会で生きているが、私の意志によって生まれる新しい存在がこの社会に新たに参加してもらいたいとは積極的には思えなかった。
しかし、生涯を共にしたいと思っている存在から「自分の子どもを持つこと」を持ち掛けられたのだった。(ここでは便宜上そのよううに表現することを許してほしい。)
それは完全に私の想定外であった。しかし、他人と生涯を共にするということは、自分の想定を超えることを求めることであった。「それは私の求めていたことではない」と言いたいのなら、他人と生涯を共にしなくていいのだ。
だから、この希望を持ち掛けられたということは、すでにバトンは目の前にあるということだ。そして、私はそれを受け取る。そして、次に渡していく。そのようなイメージが「心音」を聴きながら、明瞭に腑に落ちた。
それと同時に「心音」のサビによって、「自分の子ども」にとって、この世界が美しいか、醜いか、明るいか、暗いか、不自由か、自由かは、自分が決めることではなく、子どもが決めることだと解った。それは、私とは別個の存在が、この世界を見て、触れて、感じて、決めることだった。私が中島みゆきの歌声から人間の力の尊さを感じるように。それは、未来へ、今後誕生するかもしれない私とは別の存在へ託そうと思った。
その上で、私と相手が意志して新たに生み出される存在である以上、私たち二人はその存在の存在生を全肯定する存在であるべきだ。私が産み落としてから、私たちが死ぬまでずっと。それが意志する者の責任ではないか。