眠って眠って、眠っていた。ようやく目が覚めて書き始めた。
東京から水戸までの道のりは、電車だと3時間、高速バスだと2時間かかる。(今まさに乗っている高速バスは渋滞もあって3時間ほどかかりそうだ。)移動しながら他のこともできる交通機関での移動時間が好きな私は、昨日買った江國香織の新刊『川のある街』を読むことを楽しみに電車に、高速バスに乗り込んだ。はずだったが、行きの電車の中ではほとんど眠ってしまい、帰りの高速バスの中でも2時間ほど眠ったあと、先ほどようやく意識と思考がはっきりとしてくるという有様だった。
私は目が覚めた時、まっさらな状態になる。記憶喪失した人間のように。眠る前にぐちゃぐちゃとまとまらずに考えていたことや、衝撃的な出来事があったなど、ストレスがかかる状態であればあるほど、目覚めた時の状態はまっさらになっている。
私は、子どもの頃から今までまで、過去にあった嫌なことや、悲しかったこと、辛かったことはあまり覚えていない。意識的に思い出そうとすると思い出せるけれど、基本的には記憶に霧がかかったようになっていて、よく見えないものになっているし、トリガーがないと思い出せないような忘れてしまったことも多い。それは無意識的な自分なりのストレス対処法なのだと思う。やわな自分の心を守るための安全装置。
だから、眠りに眠っている自分に対して、今の自分は強いストレスを感じていて、それを対処しようとしているのだと客観的に思った。もちろん前日の記憶が全くなくなるわけではないので、起きればそのことと向き合い、考えていかないといけないのだけど、眠りのもう一つの効用は、心の状態が健全に、前向きになっているところであった。おそらくマイナスの感情も忘却の対象であるからだろうけど、眠る前よりも物事を良く捉えることができるように思う。
それは前置きで、今日のことを書いてみる。今日は水戸に住む友人に「梅を見に来ませんか」と連絡をもらって、水戸に行った。今日はちょうど偕楽園での梅祭りの最終日で、「水戸の一番いい季節」と友人が言うように、街は春の空気を纏って華やいでいた。
友人に、行きつけのカフェ、お気に入りの花屋、梅に華やぐ偕楽園、古道具や植物など自分が好きなものに満たされた自宅を案内してもらって、最初から最後まで水戸の魅力をめいいっぱい教えてもらった。「今日はあなたをおもてなししようと思って」と言ってくれた友人は、仕事でも乗りこなす車で自分のお気に入りの場所たちに連れて行ってくれて、県庁勤めと愛する歴史から得た知識で偕楽園の説明をしてくれて、自宅でコーヒーと、それにぴったりなおやつ(羊羹とクリームチーズとレーズンの和物)をその場で用意してくれたり、手土産に大好きなお店の焼き菓子を用意してくれて、本当に至れり尽せりだった。特に仕事で自分を追い詰めていたのだと昨日から感じていた私には、その優しさが身に沁みて仕方なかった。
友人が車を運転する姿を見ながら、ふと車の免許を取ろうかなと思った。私は自分の注意力散漫なところと、なりより感情をコントロールできないところから、車の運転を忌避していた。本当は自分が運転できる姿に憧れていたのだけど、もし事故を起こして他人に迷惑をかけたらと思うとできなかったのだった。でも、そうやって自分が不得意なことで他人に迷惑をかけることを避けてきたことが今自分の壁となって立ちはだかっているように思えた。(もちろん事故は起こしてはいけないのだが)他人に迷惑をかけても怒られても、自分がやりたいと思うことに挑戦して失敗しながらでもできるようになっていくという過程の入り口に立っているのかもしれない。
友人も気性が荒い方なのだが、車を運転することによって、気象の荒さを起因とする危険な運転をするたびに周囲から怒られて、感情をコントロールできるようになったという。その言葉通り、彼女の運転は意識的に慎重に行なっていることが感じられる安心するものであった。
帰り道、バスの窓越しに以前住んだ隅田川沿いの家を見かけた。連れて行ってもらったお気に入りの花屋で見つけた宝石のように赤い花をたくさんつけたカランコエという植物の花言葉が「たくさんの小さな記憶」「あなたを守る」だったことがなんだか象徴的であった。この記憶も、今までの記憶も、私がふだん忘れていることもあるけど、私をずっと守ってくれると思う。
そして、今帰る私の手元には鈴蘭がある。もう一つのお気に入りの花屋で買い求めたものだ。自宅に招いてくれた友人にも同じものをその場でプレゼントした。「あなたは幸せになる」という断定形の力強い花言葉が、日々に翻弄されながらも生き延びる友人を守ってくれますようにと祈る。