昼間、恋人と電話をしていて、自分の精神状態が思ったより崩れていることに気づき、その途端うまく動かなくなった心身を引きずるようにして一人でカラオケに向かった。
自分の言葉が信用できなくなった時、空虚に思える時にカラオケに行く。カラオケで自分の言葉を歌詞に代弁してもらう。今日は焦燥感のある歌に始まり過去の追憶の歌に終着していった。現実が過酷である時、過去はあまりにも優しい。それは過去の現実にすら紐づかない夢想的な亡霊であるけれど。
カラオケを終え、友だちと集合する。今日は喫茶店に行くことになっていた。その喫茶店で編集者の友だちが今読んでいるハリウッド映画の脚本家の話をしてくれた。
「人々がハリウッドのようなドラマを求めるのは、日々が淡々と過ぎ去ってしまうからだ。そこにはドラマがない。辛いことや悲しいこと、試練があっても、ドラマのように起承転結をして解決することはなく、それらを抱えて生きていくことが日々だからだ。」
だからカラオケが好きなのだと思った。カラオケは自分の人生がまるでドラマのように表してくれる。ミュージカルの世界の人のように。そのように思いながら、カラオケに一人で行ったことを話すと友だち二人はなんで誘ってくれなかったの!?と言って、喫茶店を出た後にカラオケに行った。
大学の頃の友だちとカラオケに行くと大学の頃を思い出す。カラオケしか娯楽がないような土地にある大学だったから。ただ同じ大学と言えども育った土は違うようで三者三様の選曲にお互いに笑いながら、私は二人の中にある美しい魂のかたちを見るようだった。ひとの選曲にはその人の核が、その美しさが現れると思う。
そう思いながら、この日私が最後に選んだ曲は「春よ、来い」だった。冬の寒い日のことだった。