2024/4/8 その2

meme_letter
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私にとって人間とはどのような存在か、ということを先月あたりから考えている。友人との対話の中で気づいたことは、私が人間に対して第一に感じることは「恐れ」だった。

それは小学生の時に友人と呼べる存在を認識し、その関係を築くことが人より遅かったことや、中学生の時に友人にいじめられたことが関係しているだろうけれど、私にとって人間は自分を傷つけたり、自分を疎外したりする可能性のある存在として無意識的に認識された。可能性、というところがポイントで、何をしでかすかわからないということが恐れの根源であると思う。

例えは、今回の旅でもこういうことがあった。私たちが厨房前にあるカウンターで食事をしている時に、少し離れたところに中年の男性がやってきた。どうやら給仕の人に何かを頼みたいようだが、あいにく給仕の人は忙しくなかなか厨房から出てこない。待っている中年の人が次第に苛立ちの感情を膨らませていくことが手に取るようにわかった。「この男性が怒鳴り出してこの場の雰囲気を壊すのでは」という不安に耐えられなくなった私は厨房へ大きく声をかけて、人を呼んで男性の元に行かせた。

その不安を隣にいた友人とひっそり話していた時に、その男性が近くに来てくれて、「ありがとう」と感謝を述べて立ち去った。私は何も悪くない男性へ勝手に恐怖を感じたことを恥じた。それは中年の男性への勝手なイメージのラベリングへの反省もあったが、そもそも私は他人のマイナスな感情を感じ取って対処しなければという切迫感に頭がいっぱいになりやすいのだった。

旅を共にした友人は私のことを「鏡」だと言う。これは彼女も私も愛読書としている『A子さんの恋人』の主人公A子さんの元恋人であるA太郎のことを指している。A太朗はみんなの欲望を写し出すまさに鏡のような存在であり男女問わず人気者なのだが、そのA太郎自身には欲望がなく、アイデンティティが不安定だ。そのA太郎が唯一憧れる存在がA子さんであり、A太郎はA子さんを鏡のように自分に写して真似していく。そうされたA子さんはA太郎に対して「A太郎って私のこと本当に好きなのかな?」と疑念を抱くようになり…という話なのだ。

私はA太郎ではないと思うけれど、確かに相手の欲望を写し出して与えようしてきたことがあったかもしれない。相手がなりたいと思っている像を写し出して、そうであると言葉をかけたり、相手が欲しいと思っているものを写し出して与えたりしてきたかもしれない。そうすることで、相手は満足し私を求める。私は傷つけられることも捨てられることもない。

そうやって特に高校生までは生きてきた。人間に迫害されないための処世術として、人間に迎合して生きてきた。その生き方を否定され、それとは違う生き方があることを知ったのが、大学時代だった。

大学に入って、のちの指導教官となる恩師に出逢ったことで、初めて人間の美しさや、面白さ、興味深さや、なりより悲しさに触れた。恩師自身と、恩師が教えてくれた哲学者、美術家、文学者などたくさんの人間たちの創作物によって、私の人間に対するイメージは大きく更新された。だから、今でも人間と関わることは怖い事に変わりはないけれど、全ての人間の中に見出されるべき善さがあると信じているし、そのような善さに出逢うために人間の創作物を求め続けているのだと、今は思っている。

ただ、鏡としての能力に特化したコミュニケーションな仕方では辿り着けない人間の奥深さがあると感じており、そこに辿り着きたくて、恐怖を乗り越えてでも人間に関わろうとするのかもしれない。例えば、メールを送ったり、問いを投げかけたりすることで。まだうまくはいかないことは多いけれど。