祖父が救急車で運ばれた。午前11時のことだった。
今日は妹が大阪に帰るということもあり、父と母と妹と私で、下総中山にある馴染みの洋食屋に昼に行こうと計画していた。
その矢先の出来事だった。幸い祖父は大事に至らず、夜には家に帰宅することができた。だが、祖父の体調不調により、言ってしまえばもともとの予定を崩されたわけだ。さらに言えば、父は夜まで祖父に付き添って病院から出ることができなかった。
しかし、そのことに不満を溢す者はいなかった。(父は涙の顔文字を四人でのラインに送っていたが。)妹と父は救急車を呼ぶか否かの相談をした上で救急車を呼び、私は祖父の様子を見に行き、祖母の話を聞いた。(ついでに言うなら、母は祖母に頼まれたものを含めて買い物に行っていたのだ。)
妹も私も家を出た今、父母と四人で外食する機会はなかなか訪れない。それでも、祖父の体調は何よりも優先されることが"当たり前"だと誰もが思ってる。それは、家から出た私からすれば祖父の体調不良による予定の変更に遭遇することが少ないかもしれない。あるいは、家族だからなのかもしれない。
昨日に続いて『アンダーグラウンド』を読み進めている。事件に遭遇した駅員の人たちは、新聞紙に包まれた異物を撤去することが"当たり前"だと思っている。それで命を落としてしまった人もいる。それで被害に遭われた人もいる。それでも誰かがやらなくてはいけないなら自分がやることが"当たり前"だと思って、仕事をしてくれている。
これが「責任」と呼ばれるものなのかもしれない。自分の外側の事柄に対して、自分が行為することが"当たり前"だと思うこと。そうやって、自分の力で他人の人生に「責任」を持てるなら結婚を申し込もうと思っていた。
でも、それは「責任」の一面であって、その裏側にあるのは、自分のエゴを突き通すことなのかもしれない。(これは私の結婚に対する責任のみにかかるものだ。)
「結婚したい」というのは、私のエゴだ。そのエゴを突き通す自信がないし、それが正しいかもわからない、今は。それが相手を不幸にするかもしれないし、幸せにできないかもしれない、と今は思う。
他人に深く関与することが苦手だった。他人の人生に責任が取れないから。自分のエゴを通すことが苦手だった。それは他人に深く関与することだったから。
「結婚したい」ということが理性で説明できないのなら、相手が望むことでないのなら、捨てた方がいいに決まってる。そう思っていたけど、変えるべきは、自分のエゴではなく、自分と他者への向き合い方なのだと今は思ってる。