昨日、ぽっかり空いた時間に入った本屋でたまたま見かけた、大江健三郎『われらの時代』をひとを待ちながら読む。
裏表紙に記された本の紹介文の中にあった「偏在する地雑の機会に見張られながら、自殺する勇気もなく生きてゆかざるをえない"われらの時代"」「いまだ誰も捉ええなかった戦後世代の欲望をさらけ出し、性を媒介に若者たちの内部を解剖して、閉塞感に包まれた情況下での新たな文学的冒険の出発となった問題作」という言葉に惹かれて買い求めたそれは、主人公の23歳の男性の性行為の最中の思考から始まる。自分の下でよがる中年の女の柔らかな肉体を目の前にして、自らを沈めていきながらも、彼の頭の中では孤独な思考が続く。「日本の若い青年にとって、積極的に希望とよぶべきものはありえない」などと考えながら。
目の前に肉体に溺れて没頭する女性を前に、自らの独りよがりとも言える思索のスペースを保つ男性という対比を読み、ふと浮かんだ「自分は男なのだと思って生きていこう」というこの人生で何度思ったかわからないような発想が、仕事に埋め尽くされて大切なものすらも無くしてしまいそうな自分を思いのほか立たせるのだった。
女性の同僚は共に働きづらく、男性の同僚は共に働きやすいと、言う必要もない言い訳であり悪口である醜い言葉を恋人に吐いてしまってから、どこか頭の片隅で考えていた。なぜ自分は今、性別に囚われているのだろう。最近は「自分は男性になりたい」などと考えてもいなかった、そう考えていたことすらも忘れていたのに。この文章を書こうと思って、性別に関するささやかな出来事を思い出していた。男物のスーツが似合わない自分の体を苦々しい気持ちで眺めたこと。同級生らが結婚式にいくら費用をかけるか、それは自分たちに望むものを選べばいいのだ、と誰も(プライドを)傷つけないような話をしているのを見てひどく遠くの世界の話に感じたこと。既婚の男性と不倫する友達の話を聞くこと。女の子らしい可愛いアイドルのMVをよく眺めていた学生時代。並べてみたけど、脈絡がないような話ばかりだ。「自分は男なのだと思って生きていこう」ということは、自分の中の女性性を殺すということだ。女子の世界に馴染めないなりに作り上げた今の自分は女性性そのものを避けた、周縁としての女性性によって作られている。その女性性が自分を女性たらしめてしまいそう、もう10年以上身に付けた周縁としての女性性は、女性性そのものになっていて、要らないと思った。
待ち合わせていたひとたちが来る。今日は転職した自分のOJTを囲んで食事をする会だった。OJTと仕事の話をすることが好きだ。OTJはドライでシンプルで、私の中で男性と仕事はその2つで結びついている。ドライでシンプルな自分になりたい。そうやって生き抜こうとしている。