「案外すごい寂しがり屋だよね」飲み会の最中、会社のひとからそのように言われ、そう思った理由として続いた話は、以前友人と同居を解消した時の話だった。同居中に友人が恋人ができて、恋人の家と私との家で週の半分ずつを過ごす二拠点生活に耐えられなくて、言ってしまえば「私と恋人どっちが大事なの」という想いに駆られた挙句、同居を解消して半年ほど「絶交」していたことがあった。
それは他人から見たら「寂しがり屋」に見えるのだと思いつつ、結局その友人から連絡をもらって交友を回復させたという話をすると、「その友人は貴重だがら大事にした方が良い。普通だったら、連絡することが面倒で関係が切れてしまう」と言われる。おっしゃる通りだ。だから、私は彼女と遊ぶと、いつも私の居住地の隣町にある彼女の家まで一緒に歩いて送り届けるのかもしれない。そして、私と彼女の間には普通ではない、確かにオリジナルな関係がある。
「うちの部署で一番とがっているんだよなあ」飲み会は進み話は変わり、今度はそのような言葉を言われた。とがっている。そう言われると嬉しい。とがりたくてしている行為ではないことに対して言われるから。私の中では「普通」に行っていることが、「とがっている」というのは、オリジナリティがあるということではないか。
会社のひとと話していると、周りのひとと比べて、私は子どもだった。それはわがままで、正直で、ピュアとも素直とも言える。周りのひとは大人で、自分の感情をうまくコントロールし、どんな他人を傷つけずにうまく立てる。私はできないし、したくもない(と、今の周りのひとのやさしさに甘えてそう言わせてもらう。周りのひとたちありきだ。)
大人だったら「寂しがり屋」な自分をうまくコントロールするのかもしれない。自分を押し殺してつぶれたり、他人に押し付けて関係を壊さないように、うまくスパイスとして生かすこともできるだろう。でも私はそうしない。「寂しがり屋」だとしたら、そんな自分は殺してしまいたいぐらいだけど、より正確に望むなら、その「寂しがり屋」を爆発させたい。自分も他人も傷を負って大人みたいにうまくはいかないけど、子どもらしく突き抜けたい。そのうえで関係を構築したい。それが、自分のオリジナリティだと思う。
私は、自分の中で一番大切にすべきはオリジナリティだと思う。オリジナリティは、自分の中で普通の顔している狂気から生まれる。その狂気がもっと増幅して、もっと行為に現れたらいいのになと思う。それはビジネスにはならないかもだけど、生きている!と思える。