11/15の出来事を未だ何かにすることができていない。
何か、というのは、言葉や言語化という概念とはまるで違う、と感じているからだと思う。
体験、というのは、そのまま言葉に落とせるものではない、ということをずっと感じていたし、そうであるけれどそれでも、と思ってやっているけれど、「それでも」を上回る「それでも」の味を知ってしまったようなのだ。
なるほど、これはどうしようもないわけだと、思う。人に狂う、ということについて、また一つ踏み込んで理解が深まった気がする。この気持ちは、自分にしか再現できないだろうと、思ってしまう。その思い入れ一つ一つを積み重ねてより深くループさせ、双方向で有機的な執着を深めていくのが、人を追うということの本質なのだろうと思う。
しかし、そのまま揺蕩わせていることにも耐えられないというか、「この状態を上書きされたくない」という理由一つで配信どころかTLも一切見られなくなってしまっており、その他の情報収集や交流に多大な支障が出てしまっているため、ひとまず現状をなんとか一次情報として残しておきたくて、これを書いている。
一応言っておくと、「別れの戦記」の感想ではなく、個人の思い入れの話に終始している(のでブログには載せず、こんな新しいプラットフォームを持ち出してきて書いている。)
というか、岩田さん周りの話は全部こっちに移そうかな、と思う。理由は単純で、個人の思い入れというのは他の人から見たとき、執着の気持ち悪さでしかないのだ。それはもう感想ではなくポエムなのである。ブログの方にはあくまで「コンテンツ」「作品」に対する想いを残しておきたいなと思う。
話を戻す。まあ、すごく端的に言うと、千秋楽の席運がダントツ過去一で良く、カーテンコールの間中ずっと真正面から何も遮るものなく人の瞳を見ていた、というだけなのだが。
カーテンコールという、架空と現実、役と演者、舞台と観客、時間と空間の垣根を超えて何もかもが祝福に包まれた時間、あらゆる人の瞳がどんなときよりも耀いて光をたたえているあの瞬間が、自分は本当に大好きだ。思えば、#4のときもカーテンコールでの小山さん/華恋の最後のセリフにやられていたし、パリステのときだってカーテンコールの気分上々↑↑での岩田さん/英子の姿を世界で一番光に包まれていた瞬間だと感じた。
そもそもの話、劇場版スタァライトのワイルドスクリーンバロック終幕のシーンがそうだ。あの神楽ひかりの笑顔が、99期生の晴れやかな姿が、少女☆歌劇レヴュースタァライトにおいて、「彼女たちがあらゆる全部を演じ切った、何よりの証明」であり、99期生の物語はどんなことがあっても、あの光景が描かれているから大丈夫なのだ。
そしてまた今回、カーテンコールの煌きに焼かれた。のだが、今回は本当に幸運なことに、本当に近くから、直接その全てを観測し続けることができてしまった。まさに、太陽を肉眼で直視し続けていたようなものだと思う。思い入れることを決意することによってさらに思い入れが深まるループの中に、とんでもなく深いものが刻まれてしまった。
これは、まあ、うん、席運に執着する人が出るわけだな、と思った。時間的には思い入れを積んだ体験がまだまだ浅い自分ですらそう思う、それだけの力はある。見える景色が違うどころの話ではなく、全ての瞬間が自分の人生の中で一番嬉しい時間を更新し続けているようなものであり、あえて悪い言い方をすると二度と味わえない呪いみたいなものだ。舞台やライブといった生のコンテンツの席運に伴う痛みは理解していたつもりだけど、さらに人を追うという行為に伴う執着はもっと替えが効かない領域にあるようなのだ。「その場にいなければわからないことがある」が、「その席にいなければわからないことがある≒真に自分のみに見えた景色」という、思い入れの域を超えた傲慢さ、身勝手さに塗り替わる恐怖。でもそう思えてしまうのだ、本当に。どこにいたって思いの強さは変わらなくても、思い入れの強さは変わってしまうということを、身をもって味わってしまった。「運命」という言葉は非常に残酷で不平等で、全くその字の示す通りだなと思う。
似た話として、逆に思い入れようと思わなければ、熱量を受け流すことはあまりにも容易だと思う。舞台の上の一人をずっと見ている、というのは、他の熱量を見過ごすことを選択しているということであり、舞台やコンテンツそのものに対するある種の侮蔑的行為なのかもしれないと思うこともある。しかし、全てに対し平等でいたい、俯瞰して見ていたいという理を、誰かを見ることを選ぶという感情が上回ったからこそ、見えるものがあるのもまた事実だったと、今思う。人には感情を震わせられるものについての好みとキャパシティがあり、その対象そのものを選ぶことはできなくても「何かに思い入れようとする自分を受け入れるか決める」ことはできる。だから今回の席運については、人一人を見続けようと覚悟した自分に対するある種のご褒美であったものと、いったん思うことにする。そう、これも順番とタイミングであり、もし自分が人をちゃんと追いかけようと思っていなかったなら、ここまでの衝撃を自分の中に残しておくことは絶対にできなかったのは明白であるから。
なんだかちょっとネガみもある話ばかりになってしまった。まあ、良かった話については本格的にポエムになってしまうし、それをここに書き連ねても本当に仕方がないので書かないため、自然とこうなった。とにかく、どんな舞台においても千秋楽のカーテンコールでの演じ切った姿は特別なもので、その中でも一番見たいと思っている役者さんの姿を、すごく良い場所で見られてありえないぐらいに幸運だったな、と思う。しかも、今触れているコンテンツとしては思い入れの優先順位が一番深い、レヴュースタァライトの舞台においてである。岩田陽葵さんの舞台と露崎まひるさんの舞台を、舞台での生き方を同時に観ているというありえない光景が目の前にあった。全く白昼夢の中にいるようだったなと思う。
舞台というのは、現実に架空が在ると思い込むことによって成立するエンターテイメントだと感じているが、それ故に両者への思い入れの力がうまく作用すると本当にとんでもない、全てを過去にするような体験を受け取れることがあると思う。今回もまたそれだったし、そしてこれまでよりももっと特別な得難いものだったと感じてしまった。舞台は人を狂わせる、観客側に対しても、至言だ。
やや強引なまとめ。とにかく、人には人それぞれの思い出が、思い入れがあって、それを共有することは根本的には絶対に不可能だとまた強く思い知らされたけれど、せめてそういう衝撃があったんだよということを、受け取ったキラめきを、それをくださった方々にはまた全力で、何度でも返していければ良いな、と思いました。
その一環として、別れの戦記自体の感想はちゃんと表で書くしアンケートもやるよ。それが次のスタァライトの展開への道標になることは、何よりも九九組の皆さんが示してくださっていますから。終わり。