選挙、ありましたね。こっちのオタクのアカウントはそういう話を一切しないようにしている(すぐTLが汚染されるから)し、かといって別のとこでめちゃくちゃ政治に興味持ってやってます!というわけでもないんですが、まあ国に住んでいる以上は義務の権利だしな……と思って投票には行きました。
そんでもってまあ、やれ不正選挙だ陰謀だだのといった過激な意見はそれなりに流れては来るので、はぇ~と思いながら眺めているのですが。「自分の見える世界が自分の世界であるのはどこも変わらないよなあ、当たり前だけど」と思うワケですね。
さっきも言ったように私は、普段自分の政治に対しての意思表示をSNS上で一切していないつもりです。ですが、ある他人から見て浅く物知らずで愚かだとしても、自分なりに考えてはいる。言ってないだけで。自分がサイレントマジョリティなのかあるいはマイノリティなのかは、自分しか知らない。で、そのそれぞれの意志が、日本で実施される最大規模の実態として結果に現れるのが選挙ですと。
ここからいつもの感じに舵を切るんですが、自分はオタクをやっていて、というか生き方として「何らかの意思を示さないともはやいないのと同じ」「意思を表明しないということは、果たしてそこにいたことになるのか」みたいなことはわりと思ってしまう方の人間です。でも普通に考えて、自分が政治について考えていてもそれをいちいち発信しないように、「別にそんなことしてないし、する必要性も感じてない」人もめちゃくちゃいるよなという、これまた当たり前のことについて考えています。
※ただちょっとこれは選挙に当てはめると「そもそも投票してない」人の話にもなっちゃうか……?と書いてて思いました。「政治に関して積極的に発信する」>「投票には行く」>「行かない」のグラデーションがあるわな。とりあえず前二つの話をしているものと思ってください。自分の周りは行くのは当然みたいな雰囲気だからそう思うけど、これもエコーチェンバーですよね。だって実際の投票率は56%しかないんだから。いやそんなことある?と毎回思う。
話を戻して、もしくは「別にわざわざ書くほどでもなかった」「描く理由がなかった」ということが逆説的に意思表示となっているという説も無くはないですが。でもそれも「手応え」としては無になってしまうので、投げた側からすれば何もわからないのとあんまり変わらない気がします。「見えるものしか見えないが、見えない世界が確実にある」の話です。
自分は手元に手軽な意思表明装置たるXやらブログやらしずかなインターネットがあればこんなふうに長文を書くこともあるし、そうすることが苦ではない。そういう発信の連鎖で社会は成り立っています。でもそれが苦手だったり、価値を感じていなかったりする人は確実にいるし、自分が「自分の意思を示さないことはそこにいないのと同じだから怖い」と感じるのと真逆に、「自分の意思を示すことは???だから怖い」と感じる人を「そんなこと言ってもそう感じる理由を見せてくれないとどうしようもないじゃないか」と思って、思うのは勝手だと思うのですが、ないことにはしちゃいけないんだよなぁ……と考えています。
最近特に「あらゆるコンテンツ・創作物・エンターテイメントは元を辿れば人が作ったものであり、そこには必ず意思が存在している」ことを今まで以上に考えながら生きているし、そこにフィードバックとかリフレクションがあるのは「良いこと」だと自分は思っています。その一方で、好きを自分だけのものにしておく自由というのもまた確実に存在するし、それをすることによって感情を他に手渡すことは必ずしも必要なプロセスではないということも、本当に当たり前なんですがそれはそうだよなぁと思うことをしました。
うーーーんぜんぜんまとまってないよな~~~思考を抽出して文章にするのってむずかし~~~。こういう自分の中の流動的な思考の流れを体系化して「読める」ものにできるのって、技術ですよね。もっとマシになりて~。