右上がりの起源

metayuki
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万年筆を買い足した。春めいた行為。

といって、たいそうな万年筆ではない。カートリッジ式のカジュアルな品。デザインに一目惚れした。

万年筆でなければいけない場面というのは僕の生活においては巡ってこないので、ただの好みで使うだけである。いま現在も一本、ペンケースに常駐させている品があり、最近はそればかり使っている。書き味が好きで、字はきれいではない。それはもう仕方ない。

仕方ないってことはないか。美麗な字を書けるようペン字の練習をするとか、改善策はいくつかあるはずだ。その努力に気が向かないというだけのことで。

僕の字は主にふたつのできごとによって形成された。ひとつは、天野喜孝氏のサイン。以前の記事にも書いたけれど、小学校高学年のころにゲーム『ファイナルファンタジー』が発売され、そこで天野氏の作品に触れて、心酔して、画集を買ったりしていた。氏のサインは「y.amano」が流麗な文字で、やや右上がりに書かれているというもので、ほかの画家のサインとそう違わなかったのだけれど、当時の僕はほかの画家たちのサインに意識が向いたこともなく、天野氏のそれではじめて「画家のサイン、かっこいい」と胸打たれてしまい、スケッチブックにせっせと真似事めいた絵を描いては、右下に自分のサインを書き入れて満足していた。

それからすこし過ぎて中学生になり、英語の授業で教師によるノートへのアルファベットの書き方指導があった。気持ち斜めに振るようにして書け、というアドバイスがあり、僕は絵の隅のサイン以外でも右上がりな文字を書くようになってしまって、それがいつしか日本語を書く際にも避けられない引力として働くようになってしまった。それがつまり、ふたつのできごとのうちの、ふたつめ。

いまだに文字を記す際には右上がりになるし、その癖の余波として、なんの文字を書くときにもサインを記すときみたく、ささっと書いてしまう。そりゃね、きれいな字なんて書けませんよ。

ささっと書くからいけない。自分の字の癖の根本を理解しているので、公的な書類なんかに記載するときには、まず呼吸を整えて、一画ごとに丁寧に書いていくよう心がける。細部まで省略せず、きちんと書きなさい。小学校の書き方の授業よろしく、一本、一本の線を、怠けずに、丁寧に。それでもべつにきれいな字にはならない。

しゃべることも不得手で、人前でしゃべるときにはついつい早口になる。人前で文字を書くときも同じで、ついつい急いでしまう。俺が板書してる時間なんて見ててもしょうがないじゃないか、という考えが焦りに変わって、わわわわっと手を動かしてしまう。

しゃべるのも、板書するのも、悠然とやれる人間に、そろそろなりたい。

ところでそんな僕にも一度だけ字を褒められたことがある。嘘みたいだが、本当のことで、とあるお店で自分の名前や住所なんかを記入しなくてはならないときに、応対してくれていた店員さんが「字、きれいですね」と褒めてくれた。

ええ、わかってます、そんなのただの営業的話術だと。

「この字をきれいと本気で評するのならあなたの審美眼に疑いを向けることになりますよ」というくらいの強い気持ちでいないことには、この世の中を生き抜くなんてできない。簡単に詐欺にひっかかってしまうよ。そうした諸々を踏まえてもなお、「一度だけ字を褒められたことがある」と思ってしまう弱い人間だよ。

それはそれとして、新しい万年筆も使い倒す。

@metayuki
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