バトンとしての本

metayuki
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近所のリサイクルステーションに子供が読んでいる漫画雑誌のバックナンバーを捨てに行った。今日は業者が来ていたらしく、リサイクルステーションと呼ばれる簡易的な倉庫は、ほとんどからっぽになっていた。いっぱいに詰まっていると、つい、捨てられた本をチェックしてしまう。持ち帰ることまではしないものの、どんな人がこれを読んだのかと、ひとしきり想像する。

いまはもう昔、という話になるけれど、電車の網棚に雑誌や新聞紙を置いていく風習があった。東京で働いていたころ、まだスマホがさほど普及しておらず、網棚にはたいていなにかしらが置かれていたし、前の誰かが置いていったそれらをひょいと手に取って読む人もいた。僕は常に読みかけの本を持ち歩くので網棚に手をのばすことはなかった。でも、あの風習はいいなと思っていた。

さらに話はさかのぼり、学生時代のこと。旅先で何度か、客が置いていった本を集めた本棚に出会った。いまもきっとあると思う。たいていは自由に持ち帰ってよくて、たいていは替わりになにか一冊置いていくようお願い書きがある。本もそうやって旅をする。判型もデザインもジャンルも古び方も、なんの統一感もない本たちを見ているだけで楽しかった。

それにくらべて昨今のSNSは、という話を書きそうになったけど、そんなことを書きたいとは思わないので却下。そんなことより本のことを考えたい。

リサイクルステーションとか網棚とか宿の書棚とか、そういったものに惹かれるのは、押しつけがましさがないからだ。誰が読んだかもわからないし、どうして手に取ったのかもわからない。つまらないから捨てていった、置いていった、という可能性もある。だけど大事なのはそこではなくて、手に取った側がどう読むのかこそがポイントで、自分じゃ選ばなかっただろう作品に胸を撃ち抜かれてしまうことだってありえる。ま、それは新刊であってもおなじだ。できるだけ無造作に、こちらのことなど気にかけない態度で置かれている。そういう感じで本はあってほしい。

@metayuki
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