当時、俺は二十七歳で、転職した先がいわゆるブラックだったから、試用期間だけ心身を削って、辞めた。それからひと月ほど、なにもできずにいた。父親にバイトくらいしろと言われ、それもそうだなと腰を上げた。
大学の事務で働く親戚から、学食のバイトを紹介してもらった。自分とそう変わらない年頃の若者たちを目の前に過ごすのは、きつかった。あっちにしてみれば二十七なんておっさんだったろう。行ったことのないところは遠く思えるものだ。
食堂の仕事は、あたりまえだけど昼食どきがいちばん忙しく、ピークが過ぎてからも雑務は絶えなかった。大学生ってこんなガキだったかと呆れるくらい、騒ぐし、食べ方は雑だし、大盛りばかり要求してくるし、余った料理や捨てる食材があれば恵んでくださいと空の弁当箱を持参するやつらはいるしで、そうした無邪気さのぜんぶも、俺にはきつかった。
矢野さんというスタッフがいた。六十くらいの女性で、目が細く、表情がよく読めない人だった。声が低くて髪が短く、胸のふくらみがなければ男性と見間違えそうだった。残り物をくれと群がる男子たちは矢野さんのことを「やっさん」と呼んでいた。
矢野さんは、隙あらばという勢いで椅子をきれいに並べていた。昼のピーク時にはやらなかったけど、その他の時間帯、勉強したり雑談したり痴話喧嘩したりで学生たちが騒いでいるときでも、調理や食器洗いといった仕事さえなければフロアに出ていって、乱れた椅子をテーブルの下に等間隔に押し込んでいった。
学食には長テーブルひとつに対して、背もたれのない丸椅子が八脚ずつ配置されていた。椅子は全部で二〇〇はあった。ピークを過ぎたあとはあちこちに椅子がちらばって、食べかすや外から持ち込んだゴミなんかも落ちていた。俺らも目につく範囲で対応したものの、椅子の並びについては、あとまわしにした。矢野さんだけだ。合間合間に椅子を押し込むことにこだわったのは。
ほかのスタッフに、俺もあれをやったほうがいいかと尋ねると、終業時にまとめてでいいと言われた。平日の営業は午後八時までで、そのあと清掃を行う。椅子もそのタイミングで。いちいち対応していたんじゃ、きりがない。そういう話だった。念のため矢野さんにも聞いたけど、「好きでやってることだから、兄さんはいいよ」と、表情の読めない目つきで言われた。
バイトを始めて二ヶ月が過ぎるころ、矢野さんが俺の肩をたたいて「兄さん、苦労したんだね」とねぎらいの言葉をかけてきた。なにかあったおぼえもないので、なぜそんなこと言うのか聞いたら、「ハゲてる」と自分のうなじの上あたりを彼女は指さした。鏡で確かめると、俺の後頭部に円形脱毛があった。「遅れて現れるんだよ、それ。ここに来る前のことが原因じゃないの」と矢野さんはもう一度、肩を叩いてくれた。
それから二週間ほどあと、矢野さんが入院した。ひとりぐらしの部屋で倒れて、おおきな物音に驚いた隣人が警察を呼んで、意識を失っている矢野さんを発見し、救急車が呼ばれたのだそうだ。
矢野さんのいなくなった学食は、前より荒れて見えた。秩序が乱れた、そんな印象になってしまった。俺はどうにも落ち着かず、暇を見て椅子を並べてみると、満足がいった。
それからというもの椅子を押し込み並べるのが好きになった。ゲーム感覚でもあった。ときどき学生が手伝ってくれたりして、ありがとうと俺が言うと、こんど大盛り無料で、とお願いされたりもした。
復帰してきた矢野さんは、誰かに聞いていたらしく、俺が椅子を押し込んでいることをまっさきに感謝してくれた。
「矢野さんのまねごとです」と謙遜すると、「私もそうだよ、前にいた人の真似事。私ね、自分の部屋とかきったないから。性に合わないの、掃除。でもここはね、自分の部屋じゃないから、だからやりたくなっちゃう」と言って彼女は目尻をぐっと下げた。
それから何年も過ぎた。
今日、打合せ終わりに寄ったフードコートで、七十歳くらいの男性が食事を終えて去っていくときに、通路に飛び出した椅子たちをひとつ、ひとつ、テーブル側へ押していくのを見た。矢野さんを思い出した。
もしかすると俺は大学時代よりも学食時代に多くを学んだ。
この世には矢野さんが大勢いて、自分のことではがんばれない人が、なにかを支えている。自分もそっちにいたいと願って、そこから今日まで生きてきた。
簡単な昼食を食べ終わり、自分の座った椅子をテーブルの下にそっと押してから俺は、次の打ち合わせに向かった。