打合せの中で「いまの若い子たちは将来に希望を持てないって言うじゃないですか」という発言があり、それが一般論として通用してるんだなあ、と改めて思った。ところで「いまの若い子たち」って誰だろう、とも思った。天邪鬼な考え方ではある。
僕は世代として「団塊ジュニア」に属するわけだけれど、まわりを眺め渡しても「団塊ジュニアはこうですね」とまとめることはできない。団塊の世代の子供たちですね、というくらいか。世代の括りからして続編感が漂っていて、それだけで駄作って気がしてくる。などということを他の世代の人がいえば問題視されるだろう。当事者だから堂々と言える。そういうことも世の中には多い。
なんの話だっけ。
将来に希望を持てるかどうか。これは経済と政治の文脈で扱われるのであって、個々人の話ではない。だから若い人に向かって「いまの若い子たちは将来に希望を持てないんでしょ」などとしたり顔で聞いてはいけない。これは自戒を込めてそう思う。学生を観察していると、つい、この人はこういう感じ、と自分の中での既知イメージと結びつけて理解してしまう。そうじゃない側面を知らないだけなのに、教室で垣間見た一面を拾って知った気になるのは本当によくない。
今日、課題の採点をしながら、あらためてそのことを考えた。古い広告とか好きな映画を使ってコピーを考えてもらうなどしたのだけれど、それぞれにぜんぜん別の広告、映画を選んでいて、とても興味深く読んだ。こうでなくちゃ。
話を戻して「団塊ジュニア」。十代のころにその言葉を知って、そもそも「団塊」というのがなんなのかわからなかった。わりと本気で「段階」なのかと思っていたような気もする。そもそも「団塊世代」だって気持ちのいい呼び名ではない。「かたまり」って意味じゃん。それのジュニアて、あなた。
ジュニア呼びを嫌ったといえばインディアナ・ジョーンズで、彼の本当の名前がヘンリー・ジョーンズ・ジュニアであることが『最後の聖戦』で明らかにされる。ジュニアと呼ばれることを嫌い、愛犬の名前である「インディアナ」を通称として用いるようになった。その例に倣うなら、僕が飼っていた犬の名前は「リキ」なので、「リキ世代」とでも呼んでもらおうか。
「いいえ、それは間違いですね」
「え、突然、どちらさまですか?」
「世代呼称委員のほうからやってまいりました。あなたいま『団塊ジュニア』の別名として『リキ世代』を提唱されましたが、インディアナ・ジョーンズに倣うというのであれば『ジュニア』のところを『リキ』とされるべきで、正式には『団塊リキ』となります」
「消臭リキみたいに言わないでください」
「では今の申請を取り下げてください」
「がらっと変えてもいいでしょ、僕ら世代は竹内力が好きな人も多いんだから、『リキ世代』でも間違いじゃない」
「ではあなたも竹内力がお好きなんですか? リキについてどれだけのことを語れますか」
「それは……」
書いてて続きに困ると誰かが訪問してくるパターン、安易すぎるだろ。竹内力に関する知識がほぼゼロなので(グループ魂の曲しか出てこない)、ここで終わります。本日もありがとうございました。