まだぜんぜん終わってないのだけれど、子育て終わった気分になりつつある。理由は簡単で、話が通じるようになったから。まだまだ意思疎通できない場面もあるものの、基本的なところは互いに了承済みって感じになってきて、子供を育てているという認識が薄れている。
「話が通じる」というのは、ちょっと違うかもしれない。相互理解というだけでなく、相手が(というのはつまり我が子が)独自の理屈をもって意見を述べるようになってきて、それが「子育ての終わり」を、僕の場合は意味している。これまでだってひとりの人間として接してきたつもりではあるものの、どうしたってそこには躾であったり啓蒙であったりがついてまわってきた。自分なりにものごとの良し悪しを考え、折りに触れそのことについて語って聞かせ、とはいえそれが正しいってわけじゃないので君は君なりに世間と交わって自分の考えを持ちたまえ、ファファファ、といったスタンスでいた。そんな高笑いしてたわけではないけど、でも、それくらいのスタンスだったっていうのは間違ってない気がする。
物語とかゲームにおける、いわゆるラスボスっていうのは、その世界における都合によって強くもなるし弱くもなるし、だいたい最後の局面では間抜けな感じになったりもする。親もそうかな、と思う。強いときもあれば、もろくて弱い時期もあり、子が成長するに従って間抜けな害悪として立ちはだかる。いや、子にとってのラスボスが親であるってのは、ちょっといただけない、そんなとこにラスボス設定するなよ、と思う。でも、たとえば親元を巣立つまでがシリーズ第1作だとすれば、そう、そのラスボスは親でよい。独立したあとはレベル1からやりなおしの第2作だよ。申し訳ないが強くてニューゲームなどないのだよ、ファファファ。
いわゆる「親殺し」については神話の時代から用いられる定型で、物語をつくりやすくもあるし、カタルシスもあるし、親子関係を象徴的に描くものとしても機能するから、ちょくちょく見かけるのもまあわかる。でもあれって、親の側から見た願望みたいなところもあるよな、とも思う。子供には自分を超えていってほしい、といったような感覚。子供の視点に立てば、いや親のことそんなふうに見てねえし、といったところかもしれない。どうなることやら。