布団を洗うためにコインランドリーを利用した。普段、まるで縁のない場所というか、使うことがないので、スマホからしか操作できない洗濯機や乾燥機があって驚いた。驚いたというか、めんどくさいなと思いつつ、アプリを入れて、あれこれ情報登録もした。
出入りする客たちを見ていると、いかにも独り者という風貌の人物も少なくなかった。ああ、自室に洗濯機を構えるより、ここを使うほうが効率的なのだろう、と推測した。自宅で洗濯を終えた衣類を山ほど持ち込んで乾燥機に分散して入れる人もいた。こちらは高齢の母と、その娘、といった組み合わせだった。ベビーカーを押した夫婦(と赤ちゃん)もいた。難しい顔をした中年女性は車で長く待機して、乾燥機の進行具合を確かめにきては、また車に戻った。店内(と呼ぶのが正しいのか迷うけど)には何冊かの雑誌も置かれていて、生活情報誌と、それからなぜだか地元の財界を紹介する雑誌もあった。客層に合っているということなのか。でも、僕が見た限りでは、それらの雑誌を手に取った人はいなかった。かくいう僕は遠藤周作の文庫本を持っていって、読んでいた。
それで思い出したのだけれど、大学生時代に博多駅で3時間ほど人を待ったことがある。そう、携帯電話なんてなかった(世の中に存在はしたけど、持ってなかった)。買ったばかりだった三島由紀夫の『春の雪』を読み始めて、駅のコンコースで読み終えてしまった。読み終えたところで、もういいやと思って、待つのをやめた。
コインランドリーで、じっと待つ人なんていなくて、みんな出たり入ったりしていた。僕もそうで、最後の数分を読書で過ごしただけだ。みんな忙しいのか、暇の扱いが苦手になったのか。洗濯機や乾燥機が稼働している音がうるさいというのもある。まあ、総じて、人は待つのが不得手になっている気はする。
いっしょに来ていた妻が近くを散歩してくるといって、しばらく経って戻ってきて、川を見に行こうと誘われた。すぐ近くに中くらいの川が流れていた。ほら、と言われて川面を見ると、ちいさな子鴨がいた。流れとは逆向きに進んでいったかと思うと、水の中に潜り、顔を出していたときとはくらべものにならない速度で水中をすーっと移動していった。
みんな待つの下手になった、などと偉そうに思った自分を僕は恥じた。みんなそれぞれになにかを見つけに行っているのかもしれない。