たまにこの「しずかなインターネット」で自分が書いた文章を読み返して、誤字を修正したり、わかりづらいところを書き換えたりしている。大意はぜんぜん変わらない程度で。もともと推敲をしない、だいたい一発書き、というルールを課しているので、あとから大幅に手を入れるつもりもないのだけれど、でもまあ、そういうことをこうして言葉にしてしまうとエクスキューズっぽいな。それもどうかとは思う。自分しか気にしないことではある。
ぱーっと読み返してみると、自分の感情の波がどういうふうに動いていたのかが、数日単位で見えてきて、これは日記ではないけれど、日記のような見え方もしてくるものだなと感心した。自由演技で書くものだから、その日、そのときに思いついたことなんかを打ち込んでいっているわけで、知らずに心境が反映されている。あたりまえか。
今日はどんな感じかといえば、やや低空飛行。「低空飛行」という言い回しは市民権を得て、その感じをいちいち説明しなくてもニュアンスで伝わる便利な言葉なのだけれど、でも、じゃあ、調子いいときは高いところ飛行してる気分なのかと自問すれば、べつにそんなこともない。低空飛行って、おまえ飛べるのかよ、すげえじゃん、と、自分自身に対して嫌味を抱いてしまう。
普段から飛んでるみたいな人っていたかな、と考えてみて、何人か思い当たる人物がいた。仕事ができて、フットワーク軽くて、問題が起きても動じなくて、遊ぶのが好きな人たち。怒るとみんな怖かった。相手を紙細工と思ってるみたいな凄みが表に出てきて、びびる。普段の軽快さから一転しての、強張った顔と声。「てめえ、ひねりつぶすぞ」という言葉に嘘なんかなくて、まじめにひねりつぶすこと可能なんだろう。ひやり。
そのタイプの人は、多くの場合、まちがいとかミスとかにも寛容で、「だいじょぶだいじょぶそれくらいなんとでもなるから」とか言ってるんだけど、なにかのタイミングで豹変する。これを「地雷」と誰が最初に呼んだかは知らないけれど、言いえて妙、というやつだ。だけどやっぱり「どこに地雷あるかわからない」みたいな言い回しを使ってしまうと、それはそうだろう、という気もしてくる。これまた意地悪な指摘ではあるものの、なんというか、地雷の怖さをほんとには知らないから使えるというあたりも気になる。「飯テロ」も同様の理由であまり良くは思えない。好みの問題ではあるので、世間的に使われているのは構わないのだけれど、自分で使うのがはばかられる。
その昔、とある海外のアーティストが日本のファッション誌に登場していて、おしゃれスナップみたいな写真とともにちょっとしたインタビューも載っていた。「迷彩柄は好きじゃないんだ、戦争のためのものだから」といったことを語っていて、それからというもの僕は迷彩柄を身に着けられなくなった。たしか、二十代前半のころだ。それまでだって好んで着ることはなかった。もともと似合わないし。迷彩柄以外のミリタリーファッションはたまに着ていたから、一貫性はない。ないよね。ひどいもんだ。偽善者め。言われても仕方ない。石が飛んできたりしないだけ平和だ。
そういったことを思い始めると、やはり推敲しないのは、いくら雑文といえど不誠実なのではと気になってくる。不誠実、とは誰に対してなのか。自分か、読んでくれる人か、文章とか言葉みたいな高尚なことを言い出すつもりか。
せめて「低空飛行」と同じ意味とニュアンスを伝えるべつの言い回しをと思って考えてみたけど、低調とかローギアを思いつき、でもそこには「低空飛行」に含まれる「よたよた」した感じとか、もう力尽きて着地しちゃうんじゃないのという不安はない。低調、ローギア、どちらもそれはそれとしてまだ先まで行けそうだもんな。言葉の難しさよ……。