以前なら、このくらいの時期になると苺の値段がずいぶんと下がってきて、ジャムをつくりたい衝動に駆られて3パックくらい買ってしまったものだけど、ここ数年はやらなくなった。そこまで値が下がらない、というのも一因だとは思うのだけれど、苺のブランド化が押し進められた結果、ジャムにしてやるって熱意にうまく火が灯らなくなった。
という話を書くつもりが、いま「火が」と書いたときに変換候補に登場した「比嘉」の文字を見て、かつての同級生だった比嘉さんのことを思い出した。中学生のとき、一度か二度か、同じクラスになった女子で、ショートカットで目が大きく、あまりおしゃべりが得意でないふうな印象だった。おとなしい、といえばおとなしいのだけれど、だからといって内気な感じではなく、思慮深いという表現のほうが近い。誰かがなにか冗談を言うと、一拍置いてから笑い出す。頭の回転がスローなのではなく、ひとの言葉をきちんと理解しようと努めているのが、彼女の目つきから感じられた。そして発言すれば、ほかの人が見過ごしていたことを手に持ってくるように、適切なことを言葉にした。
高校、大学と僕も歳を重ねるにつれて、身近に「思慮深い」人が現れたり去ったりしたわけだけれど、中学生のころにはなかなかいなかったので、あとになってたまに比嘉さんを思い出しては、いったいなにが彼女をあのような性格に仕立てたのだろうかと、考えてもわからないことを想像した。
小学生のときにも、ひとり、似た雰囲気の人が、そういえば、いた。こちらは小森田さんという女子で、やはりショートカットで、目はどちらかといえば小さめだった。生真面目な性格で、女の子たちのグループのなかにいるときは楽しそうに笑っているのだけれど、だれかと会話するときには、やはり、一拍置いて答えるようなところがあった。
僕は他人の苗字が気になる質で、店員のネームプレートもだいたいチェックするくらいだから、比嘉さんも、小森田さんも、苗字にまず惹かれた、というところもあるだろう。どちらの人物とも、一対一で話したことはほとんどなくて、比嘉さんは仲良しグループがいっしょだったりしたし年賀状のやりとりもあったものの、深く話すには至らなかった。もしもいつか再会するチャンスに恵まれたら、あれこれと聞いてみたい。
そういう人は、多い。あの人も、あの人も、いろいろ聞いてみたいという相手が。なんのあてもなく取材申し込みしていいものかと悩んで悩んで、言い出せないまま、という体たらくなのが、いかん。
苺を買い込んできて、ジャムつくったんでおすそ分け持っていっていいですか、それと引き換えに話を聞かせてもらえませんか、と誘ってみるのはどうだろう。