影がふたつに増えたことを母にだけ打ち明けた。
「なに言ってるの、ひとつしかないじゃない」
呆れまじりに笑ったあとで母は、「大丈夫?」と不安げに蓮彦の目を覗きこんだ。
母の反応が正常であると、十五歳の蓮彦は理解した。おかしいのはこっちだ。
最初に気づいたのは朝の通学路だった。太陽を背に坂道をのぼっていると、路面の影がV字型にふたつ、のびていた。うしろにだれか立っているのかと振り返った。住宅街を抜ける道に人の姿はなく、前に向き直ってみると影はやはりふたつあった。もう一度背後を見て、視線をあげた。影がふたつになるには異なる角度から複数の光に照らされないといけない。太陽は当然ひとつだった。
それからの数日、影をかぞえた。影は減りも増えもしなかった。目をこする回数が増えただけだった。自分の影をくっきり目視できる場面は案外にすくなかった。影は常にくっついているし、いつだって目にしていると思いこんで生きてきた。そうでもなかった。雲ひとつない晴天に外を出歩いていることも少なく、室内で見える影はぼやけがちだ。自室で照明を消し、デスクライトだけ点灯した状態で光に背を向ける。そうすればふたつの影ははっきりと現れた。いったいいつからぼくは影をふたつ連れているのだろう。考えては目をこすった。
他人の影も観察した。好天の休日にスクランブル交差点を二階のカフェから見下ろしもした。だれかに相談するのはよしておいた。友人たちにまで奇異な目で見られたくはなかった。シュンだったら、と考えたことは何度かある。シュンだったら、地面に這いつくばってでも第二の影を見てやろうと試みたにちがいない。犬みたく鼻を地面にこすらせ、視覚も嗅覚も駄目なら味覚はどうだと地面を舐めるだろう。それなら外ではなく、掃除のいきとどいた室内で影のことを打ち明けないとな。そう考えたあとで、そうだ、シュンは死んだんだと思い出した。
塾の帰りに電車を待つホームで酔っぱらいに背後からぶつかられた。線路へ押し出されたところへ特急が通過した。
シュンとは退部仲間だった。中学入学時にべつの友人に誘われバドミントン部に入部した蓮彦だが、羽根つきに興味が持てず、三日目に退部届を出した。その翌日、隣のクラスだったシュンに声をかけられた。俺もいま辞めてきた、と。強豪と名高い部で活躍するつもりでいたが、上級生に気に食わないやつがいた。こいつと二年も離れずいっしょになるくらいなら退部すると初日に決意したが、最初に脱落したと思われるのもシャクなので、だれかが辞めたら続くつもりでいた。
「おまえのおかげで無駄骨折らずに済んだよ」
以来、中学生活はシュンとの時間を意味するようになった。放課後の大半も、休日の遠出も。友人たちのなかにいつもシュンがいた。好奇心旺盛で飽き性。気前がいいくせに、他人の失敗を根に持ちつづける。大喧嘩しても二十分後には「なにしてる」と電話をかけてくる。シュンに真面目につきあうと馬鹿を見ると、ほかの友人たちはゆるやかな警戒心を保っていたが、蓮彦は最初から最後までノーガードで交際した。無論、そんなに早く最後が訪れるなんて思っていなかった。
鈍い色の雲が空を埋め尽くした木曜の朝、登校の途中にそのニュースを級友から聞いた。昨日の夜のできごとだって。は? 嘘つけよ。嘘じゃないことはすぐ判明した。通夜に出向いて遺影に対面しても、えー、としか思えなかった。特急の威力で棺はからっぽだった。ちゃんと悲しむこともかなわず、遺体はジグソーパズルになっているという不謹慎な考えが浮かんだ。斎場では我慢したが、学校でつい口にした。だれもいないのに、隣に向け声に出した。やべー、とそれを聞いていた女子が机を離した。シュンなら笑ってくれそうだと思っただけだった。ネットにつぶやいても反応はゼロだった。
考えが口から漏れるうえに、影がふたつに見えてしまうのだから、母の心配も当然だ。冬休み、蓮彦はできるだけ暗いところを歩いた。影を見ないためだ。マスクを常用した。独り言を封じ込めるためだ。世間からみれば風邪対策も講じた一般的な受験生だった。
中学最後の学期が始まり、模試だらけの一月が過ぎた。塾から帰宅して夕飯と風呂をすませて自室に入った蓮彦は卓上カレンダーを二月に替えた。シュンの事故からひと月以上。ふと思いつき、事故からの日数をかぞえてみた。五十日。四十九日の儀式をやったんだろうか。不意に胸が窮屈になり、すこし泣いた。影が増えたこと、話したかったなあ。照明のリモコンで部屋を暗くした。デスクライトはつけたまま椅子を反転させ、ベッドから壁に向かってのびるふたつの影を見た。時計の針なら十時十分の角度でV字に離れたふたりぶんの影。しぶとく消えないその現象もストレスのせいだ。ストレス、ストレス、ストレス。考えるほどストレスが重くなる。受験が終われば、そのあとの新しい生活が軌道に乗れば、この影も消えるんだろう。
「消えないよ」
どこからか声が聞こえた。
「俺だよ、シュンだ。影になったんだ」
蓮彦は椅子に座ったまま上半身をぐっと前に曲げた。V字のどちらがしゃべっているのか、目を凝らしても判別できない。それとも、幻覚に加えて幻聴まで始まったのか。
「違う。俺だ。右の影。味もない」
目隠ししてお菓子を口に入れる当てっこ遊びを昔やったことを、蓮彦は思い出した。口に入れられたスナック菓子は曖昧な味で、チョコなら一発でわかるのだが、砕いて入れられた品がうまい棒かカールなのか、じゃがりこなのか(それはないと思いつつ、確信は持てなかった)舌だけではわからなかった。カールだと教えられると、味のほうがゆるゆると変化してカールになった。シュンの声も同じだった。そうだ、シュンだ、この声。でも違う。どこか違う。
「悪かったな、おどろかせて」
違うのは雰囲気だった。なにを話していても冗談に転びそうな危うさがあったのに、影の声は大人びている。
「いつから」
「死んですぐだ。死んだらみんな誰かの影になるらしくてさ」
死んだらみんな誰かの影になる。それは神の定めた方針で、感情を洗い流すステップなのだとシュンは教えてくれた。人は地上で魂を磨くために感情を与えられている。艱難辛苦に耐えることで感情は揺さぶられ、傷つき、愛で回復し、博愛の筋力が増す。すべては高次の存在へ移るためであり、充分に魂が育まれれば感情は不要になる。ブッダ。キリスト。神に近づくほど感情は凪いでいく。当初は感情込みの魂を集めた楽園が構築されたが、憎悪と阿鼻叫喚と終わりのない殺し合い(死んでいるので死にはしないから厳密には殺し合いにもならないのだが、感情持ちの魂は気に食わない相手を磨り潰すべく奮闘する)で駄目になった。そこで神は一計を案じた。肉体を離れた魂をそのまま天に招くのではなく、べつの人間の影にしてみよう。他人事であれば冷静に見る。それが人間だ。三十メートル走れば息切れする中年が監督づらでプロの試合を批判するように。不倫に溺れるふたりを陰で笑うように。死後、別人の半生を影の立場から延々と傍観することで感情の無駄っぷりを痛感し、魂は浄化される。晴れて天国の門が開く。
「だったら最初から感情なんか与えなければいい」
蓮彦の反論を影は比喩で否定した。
「磨かれない魂は深海魚だ。もっと明るい世界があることを想像さえしない。天国の民にふさわしいとはいえないだろう」
感情のこもっていない口調だった。
「ほかの人の影が増えてないのは? それともみんな自分の影ならふたつだって視認できるわけ?」
「それは俺の失敗。だれの影になるか聞かれて蓮彦のことを思った。そうしたら蓮彦の足にくっついてた。死んですぐだったからまだ俺にも感情が残ってて、おもしろがりたいって思いがあって、影が動いたらすげえなって、だからおまえの影からいったん離れてみようとしたんだけど、中途半端なところでかたまった」
以来、ひとつの影に戻ろうと努力しているのだが、初めての経験なのですんなり元通りとはいかず、蓮彦が影の異変に気づいてしまったので、戻る努力とはべつに、事情を説明するためにしゃべる努力もしたのだと、シュンは語った。
「影が元通りになったとして、一生そこにシュンがいることは変わらないんだ」
「気にするな。こっちも気にしてない」
その夜、蓮彦は思いついた疑問を思いつく端からシュンに投げかけた。死後の世界について、死んだ瞬間について、影でいることについて。未練はないか、なにかやってほしいことはないか、ほかの人の影に移動できないのか、試験中に答えを耳打ちしてくれないか。シュンはひとつひとつに回答してくれた。冗談めいた言いまわしもときおり挟み込まれたものの(死後の世界はまだ知らないというし、未練はないかと尋ねたときには受験勉強は手を抜けばよかったと言われた)、工場でプレスされたワイシャツみたいにしわひとつない口調では、冗談かどうか判断できなかった。
影ふたつのまま、蓮彦は日々を過ごした。健全な十五歳としてはエロ動画を介しての自慰行為も欠かせない日課で、最初の二日か三日は照れのような、怒りのような感覚が背中に張りついていたものの、どうでもよくなっていった。スマホのカメラがハッキングされておまえの痴態も常時録画されているかもしれないと学校の情報教育で担任に脅されたときと同じだ。担任がノートパソコンのカメラにシールを貼っていると自慢げに語ったとき、男子生徒たちは「やましいから」と笑った。気にしても仕方ないものは気にしても仕方ない。シュンだって無感情に見ているだけだ。自分の肉体をせっせと擦る様は、影だか幽霊だかから見れば滑稽だろう。試しに蓮彦もネットで男性の自慰行為を観賞したが、なんの感興もわかなかった。たまに視線を落とすと黒い人型を見てしまい、目があったと感じた。目などないのに、影のどこに目があるのかわかるのだ。できるだけうつむかず、光に背を向けずに暮らした。
志望校に合格した。影のほうからおめでとうと祝福された。合格発表の掲示板の前でのことだ。周囲でわきおこる「おめでとう」の合唱にまぎれていたので、だれも影がしゃべったとは気づかない。蓮彦はうつむいて「ありがとう」と返した。目頭が熱を帯び、涙が頬をつたって地面に落ちた。春の陽気に照らされた高校の石畳にくっきりとしたふたつの影。その基点である蓮彦の足元に涙は落ちた。涙に濡れた影がふくらみはじめて立ち上がり、それがシュンの姿になり、なんて奇跡は起こらなかった。嬉し泣きだと思った父が蓮彦の肩を抱いた。
高校一年の終わりごろ、ふたつの影の角度が以前より狭まっていることに気づいた。シュンの努力が継続されている証だ。しかし、と蓮彦は考えた。その努力に心は伴っていないのか。がんばる、というのも感情の一種じゃないのだろうか。浮かんだ疑問は、頭を振り払って捨てた。
高校二年の冬にコンビニのバイトを始めた蓮彦は、そこで知り合ったひとつ年下の子に告白し、交際をはじめた。春休みにふたりで遊園地に出かけ、観覧車でキスした。曇りの日で、太陽に近づいても影はできなかったが、唇を離したあとで蓮彦は足元に目をやった。恥ずかしがっているのだと理解した恋人は、彼氏の鼻に指先をあてて笑った。
高校三年生になり、十七歳最後の日に友達の家に泊まると嘘をついた蓮彦は恋人とホテルで過ごした。彼女の要望で部屋の照明は最弱まで落とされた。間接照明は円形ベッドまで届かず、照明器具のシルエットを壁面に浮かばせているだけだった。これも馬鹿らしく見えるかなと一方で考えつつ、蓮彦は初めて触れる箇所に指先を震えさせた。試行錯誤の共同作業を照れ笑いとスタッカートのうめき声とで乗りきった。こんな広いベッドで寝たことないと恋人は両手をのばして丸っこい笑い声をたてた。こんな好きな人といっしょに眠ったこともない、と蓮彦は応じた。歯の浮く台詞だが、馬鹿馬鹿しくはなかった。恋人が眠るのを待って、蓮彦はトイレに入った。あかりをつけると真っ黒な影が便器を覆い尽くすように現れた。太っちょのぼやけた影がひとつあるだけだ。
「シュン」
「なに」
「いたんだ」
「いるよ」
「見てた?」
「よかったな。おめでとう」
めでたいものか。なにがめでたいんだ。無性に腹が立って蓮彦は口の内側を噛んだ。なんでもわかられているふうに言われてしまうのもむかついたし、相手の言葉が無感情なのにも苛立った。もういいよ、離れてくれよ、成仏しろよ、天国行けよ。悪態が脳裏でフィーバーするが、声に出せない。恋人が眠っているし、トイレでひとりで怒り狂うのはいかにも馬鹿げている。死者じゃなくてもそれくらいわかる。もう二度と話しかけたりするものか。蓮彦は決心した。トイレのふたをあげると、影は便器の内側にも落ちた。勢いよく小便を出した。水を流し、ベッドに戻った。恋人の寝顔を見つめ、長い髪に触れてみた。
「もうすぐ消える」とささやき声が聞こえた。「影が元通りになったら、俺は天国にいる」
蓮彦はなにも返さなかった。
数ヶ月が過ぎた冬の夜、街灯の下を歩いているときに発見した。影がひとつに戻っていた。
その後、恋人とはささいな喧嘩で別れた。大学へ進み、教員免許を取って、高校教師になった。五、六歳しか違わない子供たちと向き合うとあまりの幼さに呆れ、馬鹿だなあと感じ、影になった気分を味わった。生徒たちはつまらないことで大笑いし、見当違いな方向へ一丸となって突き進んでは悔し涙を流す。落とし穴があるぞといくらアドバイスしても、子供らは穴に落ちるまで学ばない。動画で炎上して退学騒ぎになろうともスマホを手放さないし、アカウントに鍵をかけろと命じてもどこ吹く風だ。静観がいちばんの対処法で、影になるしかなかった。
職場での無感覚を穴埋めするように、蓮彦は大学時代からの恋人との関係をたいせつに育んだ。負の感情をコントロールし、とつぜん胸を支配するような苛立ちも時間をかけ噛み砕いた。恋人は友人にも家族にも蓮彦を自慢した。温厚な男性、理想のパートナーとして。蓮彦もその気になったが、胸のどこかで本当には愛していないのではないかと不安を抱いた。激しい愛情は、激しい憎悪と一対で、温厚な人間に激情は宿らない。そんな気がしてならなかった。自分の愛は影のように薄っぺらなものだと。深さもない。怒りも悲しみも持たない人間が愛を深められるはずもない。
結婚し、子供が生まれ、良き父親の日々が続いた。ひさしぶりに地元へ帰省すると、母からシュンのお母さんが亡くなったことを教えられた。蓮彦は思わず自分の母の影に目をやった。シュンのお母さんはだれのもとに行っただろう。自分の母は、父は、妻は、だれのもとに行くのだろう。自分の子もやがて影になるのか。きっと、そうなのだろう。
実家の前の道で息子と遊んでいるうちに空は赤く染まっていった。見事な夕焼けの下、長くのびる影を見つめていると、息子が「影踏んだ!」と蓮彦の前に飛び込んできた。黒い人型の中にずるりと我が子が引き込まれる場面を想像し、あわてて息子を抱きあげた。ありったけの力で息子を抱きしめた。怯えたような事態は起きなかった。蓮彦の慌てぶりに息子が怯えただけだった。
ごめん、ごめんと泣きながら謝る父が、幼い息子には、不思議で、怖かった。