先日、文章の指導を担当している会合があって、その席上で吉本ばなな『キッチン』が若い人に今また読まれている、といった話題が出た。かくいう僕も「若い人」だった時代に一度(か何度か)読んでいるはずだけれど、内容はすっかり失念しまっていて、書店に立ち寄った折に文庫をさがして買った。
吉本ばななさんの作品は、昨年、『はーばーらいと』を単行本で購入して読んだ。長編の部類なのだろうけれど、一息で書かれたような勢いがあって、こっちもほぼ一息で読んでしまった。それから2ヶ月ほど前にも『ミトンとふびん』という短編集を文庫で読んでいた。ちょっとばななづいている、と思わなくもない。
というわけで『キッチン』である。表題作の「キッチン」は冒頭の文章がことに有名。
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
これである。若い時分にはどうしてこれが有名になる文章なのか、わからなかったし、いまだってよくはわかっていない。「考えるな、感じろ」の理屈でいっても、正直、ぴんとこない。ただ、作品を一読して戻ってくると、なるほどなあ、と納得させられてしまう、そういう感じはある。
文庫『キッチン』には、「キッチン」の続きにあたる「満月――キッチン2」と、もうひとつ、独立した短編である「ムーンライト・シャドウ」が収録されている。どれも「人の死」を描いている、というか「残された側の生」を描いているといったほうが近い。などというところから始めると偉そうな作品論をものしてしまいそうだから、話を端折る。
収録作を読んで考えたのは、短歌とか俳句とかに近いな、ということだった。いずれも短編なりの分量を持った作品なのだけれど、そこに描かれていることはだいたいひとつで、そのひとつのことを表現するのにこれだけの言葉が必要だった、といった印象を受けた。作品なんてどれもそんなもの、という考え方もあろうけれど、でも、物語を形づくりながらも、物語性に引っ張られるのではなく、ひとつの思いとして結実させているのは、すごい。五・七・五でも、三十一文字でも、切り詰めることで豊かさを生じせしめる技術というのはあって、ばななさんの作品にはそれと近い感覚が宿っている、ように感じる。切り詰める、というのとは違って、なんだろう、作家が感じたことを登場人物の心情に乗せて走らせて、手製のチョロQからしか見ることのできない景色の流れ方を読者に提示してるとでもいうような、コンパクトだけど速度があって、その速度のなかでしか体感できないなにかを見せつけられた気分。
昨晩、眠る前にパソコンのOSのアップデート通知に気づいて、眠ってるあいだにやっちゃってよモードを設定したつもりが、今朝、アップデートができていなかったので、ちぇ、と思いながら手動でアップデート開始の手順を踏んだ。待っているあいだに、最後の収録作である「ムーンライト・シャドウ」を読んでしまった。
『キッチン』に収録された3本の作品に共通しているのは、あるいは吉本ばななという作家の作品に共通しているのは、「忘れない」ということではないかと思った。「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。」という一文は「思う」という言葉で結ばれていて、不確実性をはらんでいる。それは語り手の確信のなさを表しているのではなくて、いつか変わってしまうかもしれない、この世でいちばん好きな場所が「台所」以外のどこかに移ってしまうかもしれないという予感を潜ませている。だけど語り手は絶対に「台所がこの世でいちばん好きな場所だった」ころを忘れないだろう。その忘れなさこそが、うたかたの世において最も永遠に近い決意表明であり、最も深い愛情表現なのだよワトスンくん(書いてて小っ恥ずかしくなった)。