自宅本棚に中公文庫の『教科書名短編 少年時代』がある。「心に残る戦後文学・翻訳小説の名作を中学国語教科書から厳選。」と説明書きにあるとおりの短編集だ。
収録作のなにかを読もうと思って購入したのが4、5年も前だろうか。目当てのものだけ読んで棚に差し込んだままになっていた。これを、ふと手にとってみて、三浦哲郎の名前に気づいた。三浦さんの何が収録されているのかと目次を確かめると「盆土産」と書いてあり、どんな話だろうかとページを繰ってみたところ、1行目で「あ!」とおどろいた。
えびフライ、と呟いてみた。
それが冒頭の一文であり、ビリヤードのボールがぶつかるようにして、「えびフライ」の文字から「えんびフライ」という言葉が転がり出てきた。そうか、あれ、三浦さんの作品だったか。
筋としてはおもしろいものではない。東京へ出稼ぎに行っている父親がお盆に「えびフライ」を買って帰ってくる。子供たちは(大人もだが)「えび」も「フライ」も知ってはいるが、「えびフライ」は見たことも食べたこともない。主人公の男児は、「えびフライ」と言えず、どうしても「えんびフライ」と発音してしまう。そして無事に父が帰省し、えびフライを家族で食べ(母親は亡くなっている)、父がまた東京へ戻っていく。そういう話だ。
中学生のころに教科書で読んだはずだけれど、おぼえているのは見事に「えんびフライ」だけだった。今回、読み直してみて、父親が「村にいるころから」帽子を「あみだかぶりにする癖があった」というくだりと、「真新しいハンチング」を被って帰省したという記述に「そうだった、そうだった」と、たしかに読んだ記憶があるぞと、なんだか感動してしまった。
しかし、中学生にこれを読ませて、なにを考えさせたのだろうか。ちょっと渋すぎやしないか。作品の素敵なところをいくつも挙げることはできるし、説明だってできるとは思うものの、じゃあこれを「名短編」として味わえる中学生がどれだけいるのかといえば、1%とかじゃないだろうか。
しかし、しかし、文学ってもともとそういうものであって、読んで即座に「うわあああ」となることもあれば、ぜんぜんピンとこなくて、ということもある。後者のほうが圧倒的に多い。なんて話はどこでもかしこでも見かけるので、ここでは割愛。
「えんびフライ」の一語を僕に残してくれただけでも、この作品は名作だと言いたい。僕だけじゃなく、世の中の数万人とかが「えんびフライ」を覚えているのではないだろうか。それは切符みたいなもので、ある日、そんなつもりもなく駅の前を通りかかって、「おや、こんなところに駅なんかあっただろうか」と思いつつポケットに手を入れたら、買ったおぼえのない切符が出てきて、ちょうどそこに列車が入ってきて、ふらっと乗ってみたら、昔にいちど乗ったことのある列車であることを思い出し、車窓からの景色にも見覚えがあって、だけど昔よりもずっと鮮明に目に飛び込んできて、狂おしい気持ちになってしまう。
といった現象がときどき起こるのが教科書名短編の価値かもしれない。