毎度、古い話ですが、物心ついた時期に暮らしていたアパートには同世代の男子がおらず、女子に取り囲まれていた。それでどうも僕は自分を女の子と位置づけていた節があり、言動にもそれらしい振る舞いが見られたそうだ。自分ではほとんどおぼえていない。性自認の話ではなく、幼いころ、環境によって思い込みがあったということだ。
それが素地となったのか、どうなのか、いわゆる男らしさみたいなものに惹かれることがなくて、服装にしたって女性もののほうが好みだった。シンプルな中に、筆をきれいにはらうような、きれいなデザインが施されている。そんな品は、メンズ服ではなかなかお目にかからなかったし、あったとしても自分が着るとちぐはぐになった。こぢんまりしたセレクトショップで女性もののアウターなんかに目を光らせて、おおきめのサイズを買ったりしていた。
最近はもうレディースを着ることはなくなった、と言っていいくらいに減ったけど、昨年末にユニクロ×アニヤ・ハインドマーチのニットをいそいそと買って着ている。ユニセックスではなくて、あれはひさびさにレディース。おうおうおう、なんでメンズは出さないんだよ、ああぁ?(大きめサイズ出していただいてありがとうございます)
とはいえ、昔にくらべれば男性服のデザインもバリエーションが増えた。かくあるべし、といった意識が薄れていって、多様性が認められるようになってきたということか。
東京で働いていたころ、なにがよかったかといって、どんな服装でいても誰も気にしない、その空気感が大好きだった。奇抜な格好をしているわけではないけれど、地方でレディースアイテムを身に着けているのは、やはり、なにかしら、奇異の目というものを意識させられた。
二十歳ごろ、なので1990年代の半ばあたり、ネットの普及はまだまだで、好きな服を見つけるなら店に通うくらいしかなかった。先に書いたとおり、セレクトショップなんかでレディース商品を普通に買って、普通に使っていたところ、「アトピーでコンプレックスあるから洋服に気を使うのか」と問われた。そんな自覚はなかった。自覚、というか、そもそもそうした意識があったのかも謎だ。でも、一度言われてしまうと、その可能性は新しい影として自分についてまわるようになった。それはそうかもしれないな、という程度には、真に受けた。
中学生のころ、運動会で日焼けして、肌がボロボロになった。もとより皮膚については問題ありだったので、以来、こまめに日焼け止めを塗るようになった。いまでは信じられないけれど、僕が十代のころ、男子が日焼け止めを塗るのは、けったいなことだった。高校時代、体育の授業の前後で日焼け止めを塗り直していると、女子におどろかれた。そういう経験も、ひょっとすると僕の服装の方向性を決める一因となっているのかもしれない。
人はなにを基準に、どんな意図で、服を選ぶのか。当然そこには、その人の歴史が表れている。「わたしはどうしてこうした服装を好むようになったのか」というテーマで、いろんな人に話をうかがいたいものだ。