『日記をつけた三ヶ月』の感想と感謝と羨望と。

metayuki
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後輩が制作に携わったZINE『日記をつけた三ヶ月』をご恵送いただいたので、さっそく読んだ。一息に読んでしまった。おもしろかった。

『日記をつけた三ヶ月』は詩人の大崎清夏さんがファシリテーターを務められた「日記をつける」ワークショップから生まれた一冊で、参加者9名の日記を抜粋して構成されている。ワークショップは2023年7月〜9月の3ヶ月にわたって開催され、その間、参加者たちはGoogleドキュメントを用いて日記を書いていたらしい。参加者はほかの参加者の日記を読める状態だったようなので、日記を「書き合う・読み合う」という関係が日常的に続いた、ということだろう。

ZINEにはそれら日記のうち、7月2日、8月13日、9月10日の3日分がピックアップされている。いずれも参加者が実際に一堂に会した日のようで、日記という文章を通じてしか知らなかった人物たちと実際に会う7月の緊張から始まり、わずか3ヶ月、直接会うのは数回という交流にもかかわらず、最後にはこのワークショップが終わることを惜しむ気持ちが芽生えている。そうした心情の変化が読む側にもびしばしと伝わってくるものだから、部外者である自分が「ひとの日記」にあっさり共感できてしまったことに戸惑いをおぼえもするのだけれど、それも「日記」という体裁がもたらす効果なのか、それとも複数名の日記を混ぜ合わせることで他人の気持ちまで揺るがす妙薬ができてしまったのか。きっと後者。

あたりまえのことだけれど、9名の筆者がいるので、それぞれの文体も違えば視点も違うし、そもそも生活が違う。日記を書くということはどうしたってその人の時間が表れるものだから内容も異なって当然なのだけれど、このZINEのおもしろいところのひとつは、読まれることをわかったうえで日記を書いている、ということで、ひとつにはそれが読みやすさにもつながっているし、「どこまで書いていいのか」という惑いもうかがえてきて、結果的に書かれていないところまで伝わってくる。「今日はこのことを書こう」という姿勢が素直な日記の書き方だと思うのだけど、「読まれる」が前提となるとそうはいかない。そこがおもしろい。

ある人物がワークショップでの一コマを書いていると思ったら、べつの人物が同じ場面を別視点から書いていて、いわゆる「点と点が繋がる」ようにしてその場面に奥行きが生まれたりする。「奥行き」と書いてしまったけれど、それは違うかもしれない。印象としては平面に近く、そこがおそらくドキュメンタリーとか小説とかとの違いなのだけれど、点と点が結ばれて新しい絵が見えてくる感覚に近い。人物Aが見た場面に人物Bが感じたことが付け足されて、AもBも含めて誰も知らなかった場面ができあがっていくような、と書けばすこしは伝わるだろうか。

日常は、どうしたってひとりひとりの意識でしか動いていかないけれど、ひとりの日常とべつのひとりの日常を組み合わせることで、誰も認識しなかった日常が生まれる。なにそれ。それってもう非日常じゃないの、という気もするけど、でも、あるのだ。

部外者たる僕は「日記をつける三ヶ月」というワークショップのなかの、たった3日しか知らない。ひと月が30日だとして、読めるのは1/10ということになる。それでもこの不思議な感覚を味わえるのだから、参加者の皆さんは、どれだけ濃密な3ヶ月を過ごされたのか。想像するだけで、羨ましいし、目眩がしそうだし、それってもはや精神と時の部屋で過ごしたようなものですよね、と言いたい。10人分の3ヶ月を3ヶ月で生きましたね。へんな言い回し。

それから、さっき触れた「どこまで書いていいのか」について。どの方もその問題は考慮しただろうし、文体というか、書かれ方のスタイルにその考慮の跡が見えるわけだけれども、日記である以上はプライベートなことを書かざるを得なくて、なにげないスタンスでけっこうな告白が綴られる場面もあれば、筆者がそれと気づいていないふうに重要な指摘が織り込まれていたりだとか、コントロールしきれていないところに人柄が浮かんでいて、おもしろい。

あまり日記を読む機会はないものの、たとえばひとりの作家が綴った日記を読むと、「ここを読め」という意図があって、隅から隅までその人が全開、という感じで、個別のトピックを通じて作家の人柄や生活の理解が深まっていくものだけれど、このZINEには、そういった傾向があまりない。なくはない。もちろん、ある。あるんだけど、僕がおもしろいと感じたのは、それぞれの筆者だけでなく、その周辺に生きている人たちも、筆者とおなじくらいに生きている感じがしてくるところだ。「ああ、この人はこういう生活を送っているんだな」にとどまらなくて、「ああ、この人の身近にはこんな人たちも生きているんだ」と感じる。たとえば作家による日記がスクリーンという枠組みの上で上映されるものだとすれば、『日記をつけた三ヶ月』は、枠組みのない視界の上で展開されているようなイメージがある。視界の端っこまでしっかりと生活が息づいていて、意識にまではのぼってこないけれど、ちゃんとそこにもなにかがあって、なにかが動いていて、というイメージ。

さて。

ZINEの最後には、ワークショップ最終日につくられた連詩も収録されている。参加者たちが3ヶ月分の日記から(他人が書いたものも含めて)好きな箇所を引いて、順番につないでいくという形で詩に仕立てていく趣向だ。これも素晴らしかった。これこそ素晴らしかった、といってもいいかもしれない。日記を読んだその流れで連詩を読んだときの強烈な印象ときたら。3ヶ月という時間、複数名の筆者たち、つまりそれは24時間✕3ヶ月✕参加人数✕言葉の数✕その他いくつものなにか、が掛け合わさってできた膨大な素材を、ぎゅっと圧縮して、だけど「ぎゅっと」なんていう詰め込んだ感じはなくて、この「無限を含んだひとかたまり」とでもいうような存在よ。

詩に明るくないので、もしも日記パートなしにこの詩だけを読んでいたら、ここまでの感動があったかどうか、わからない。おもしろいな、と感じたかもしれないけれど、頭での理解が支配的になっていただろうとは思う。だけど僕は日記を、一部とはいえ読ませてもらってから、連詩というプールに飛び込んだ。眩しさにはじまり、終わらない夏に終わる詩の中に。最高。

この人たちがワークショップに参加しなければ、生まれなかった詩。ワークショップに参加しなければ生まれなかった絆であり、ワークショップに参加しなければ知らなかった自分にも、皆さん、会うことができたんだろうと思う。他人事ながら、ふしぎなものだなと、心の底からそう感じる。時間は一方通行で、人の視点はひとつで、人の心もそれぞれにひとつで、だけど言葉によって時間は戻され、停止され、また動き出したりもするし、視点も心も自分という器から出入りできるようになる。

それぞれの生活や事情があるなかでこのワークショップに参加された皆さんに、大いなる船頭役を務められた大崎清夏さんに、関係されたすべての人々の暮らしに、一読者として、ありがとうございますと言いたい。

@metayuki
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