ある曲を聴いていて、「バイバイ」という歌詞が出てきた。そういえば「バイバイ」って久しく使っていないなと思った。
「バイバイ」はわかれるときの挨拶で、子供のころは日常的に使っていた。じゃあねまた明日、といったニュアンスで、子供のころにはそんな「ニュアンス」だなんてことを考えもしなかったわけだけれど、つまり「バイバイ」には「つぎ会うことの確約」も含まれていたように思う。ま、実際には儀式的な言葉でしかなくて、友達とわかれて帰路につくにあたっての定型だった。
それがいつから使わなくなったのか。
友人よりも仕事関係のつながりが増え、おいそれと「バイバイ」なんて言わなくなった。「おつかれさまでした」が最多出場。「さようなら」「じゃあまた」「それじゃ」とかがそれに続く。なんなら友人と会ってわかれるときにも「じゃあまた」あたりになってしまっていて「バイバイ」にはならない。頻繁に友人とあっている人はどうなんだろう。大人になっても「バイバイ」を使うのかな。
会わなくなった人たちと、最後にどんな言葉を交わしたのか、思い出せる限り思い出そうとしてみても、ぜんぜん蘇ってこない。親しかった人とは最後の会話よりも楽しかったできごとのほうが油膜みたいに表面を覆ってくれていて、悲しいことはその下に隠れて出てこない。親しくなかった人とは、場面は思い浮かんでも、そこにあったであろう言葉が聞こえてこない。
たまに子供たちが「バイバーイ」とおおきな声で言っているところを目撃すると、悲しくなる。べつにこちらに対して発せられた言葉ではないのだけれど、物悲しい気持ちになる。それはノスタルジーの作用かと思っていたけれど、そうではなくて、もう自分が「バイバイ」を使わなくなったことに気付かされるからなのかもしれない。
かといって「バイバイ」を積極的に使いたいとか、そういうことでもない。子供たちがほぼ無邪気に「バイバーイ」と言い合っている、そこに悲しみはない。ないだろう。「また明日」が約束されている。実際にはそんな確約はどこにもないのだけれど、子供たちはそう思い込んでいるし、たいていの日常はそうやって進んでいく。卒業式でもきっと「バイバーイ」と言うだろう。その言葉が約束でもなんでもなくて、儀礼的な言葉だったと知るまでは。なんと悲観的な考え方。だけどそう思う。
もしも自分がつぎに「バイバイ」を言うとしたら、むしろそれは、次に会う約束ができない状況で、だけどまたいつかそういう機会がめぐってくるかもしれないよね、という願いを込めたものになるだろう。いやいや、そうじゃなくて、もう会えなくなった人に向かって、いまこそ言いたい。そんな気もする。じゃあね、またどこかで。歌詞に現れる「バイバイ」の多くは、そんな手触りで僕らの感情に行き場を与えてくれる。