もう話題としては旬を過ぎた感もあるけど、句読点の使い方がどうのこうのという記事が流れていて、あまり関心を持たないままでいた。結論のない話題だもの。
言葉が時代によって意味を変えていくのはもう百も千も承知なのだけれど、このところ気になっているのは「罪悪感」について。「罪悪感をおぼえない◯◯」といった言い回しが市民権を獲得してあちこちで使われている。いいんですよ、意味はわかるし、ニュアンスがあるのも、はい、そうですね。ただですね「罪悪感」というやつは感じたときに生じるものであって、生じてもいないものを「罪悪感を感じない」みたいに書かれると、むむむ、と腹の底あたりに力が入ります。百歩譲って「罪悪感をおぼえない」と言ってくれれば、腹の底も、む、くらいで済むんだけど、「感じない」って言われるともう駄目。「感じを感じない」って、おい。いや、いいけど、そんなところに文句つけたって川の流れを変えることはできないし、変えたいとも思わないし、俺がひとりで、むむむ、ってなるだけだから別にいいのだけど。
高校時代、保健の授業で教師が皆に命じた「机上の上に手を置け」という一言が忘れられない。そういうこというと「揚げ足取り」とか「馬鹿にしやがって」と叱られる(実際叱られた)けど、でも、忘れられないんだ。「机上の上はもはや宙」と思った僕は、机の上空3cmあたりに手を浮かせていた。なんて嫌な生徒。先生だってつい口にしてしまっただけだろうに。自分の意地の悪さが露呈するだけのエピソードじゃないか。
そんな反省というか自戒もあって、「罪悪感を感じない」という言い回しには、過剰に反応してしまう。
大学時代に先輩が言った「つまり、先見の明がなかったってことですよね」という一言も頭に深く刻まれていて、ときどき思い出してしまう。いいのだ、「先見の明がない」と言ったって、そりゃ理解できるもの。「見る目がなかった」とか「考えが足りなかった」とかって意味でしょう。でも「先見の明」というのは「あった」ときに初めて観測される事象で、そのへんにころころ落ちてるのではないから「先見の明がなかった」という言い回しはないんじゃないかな。ないよ、だいたいの人、ないあるよ。
などと重箱の隅をつつきまくる人間が、いまさら句読点の打ち方を気にするなんてちゃんちゃらおかしいのだ。
とかいいつつ、学生に対する講評では句読点を少なめにしてしまう日和見馬鹿野郎が自分であります。
コピーライターとしてキャリアをスタートさせた当初、幾人かの先輩方に「句読点はちゃんと打て」と指導されたのは、それが言葉をコントロールする重要なポイントだから。キャッチコピーにも句点を置くようにしろ、とも言われた。もちろん句読点を使わないコピーも多い。それには、相応の理由がある。文字ひとつの違いについても理由を語れるようになれ、といった指導もあった。それは意味をひねりだせということではなくて、そこまで考えろ、という話だった。コピーだけじゃなくデザインもそうだろう。どうしてここの空間があいているのか、と問われたなら、答えられるように準備しておかなくちゃいけない。
なんてことを得意気に書いてれば、怒ってるみたいとも言われるわ。怒ってないですよ。怒ってはいないけど、今日はちょっと、むむむ、となることがあってですね、ええ、まあ、ちょっと怒ってるかもしれない。む。