前も書いたか記憶があいまいだけれど、昔、『広告批評』という雑誌があって、そこが主催していた講座に通ったのがきっかけとなり、僕はコピーライターになれた。なれた、というか、コピーライターとして就職できた。その時点ではコピーライターになれていたわけじゃなくて、修行のために門をくぐることができたくらいのものだった。
講座でコピーについて、あるいは広告について学んだはずなのに、その内容をあんまり記憶していない。福岡で開催された講座は、地元代理店のコピーライターさんによる実践指導と、東京で活躍するコピーライターさんの講演とを交互にやっていくという内容だった。
「身近な広告をべつのものに変えてみよう」といった課題が出されたとき、熊本の実家に暮らしていた僕は、熊本市内を走る産交バスのラッピング広告の案を出した。あまりにもひどくて、よくおぼえている。あれのなにが「アイデア」と思っていたのかと呆れる。戒めとしておぼえているのかもしれない。
東京のコピーライターさんによる講演は業界裏話的なものが多くて、多田琢さんによるSMAP話がおもしろかった。岡康道さんの話も聞けた。岡さんは一度講演を聞いただけでも、包容力のある人物であることがありありと伝わってきた。あと、強烈におぼえているのが、講師のひとりが女性と交際するのが下手くそで、大雨の日に出かけるのが面倒で約束をすっぽかした、という話。わあ、クズだなあ、といったところだったが、この人の書く言葉はすごかった。
20名程度の受講生が同期にいた。とても印象深い女性がひとりいて、その方はのちに電通にコピーライターとして就職し、いろんな伝説を打ち立てたと聞いた。たしかに受講生時代からとんでもない傑物という雰囲気だった。
もうひとり、受講しているときには一切の関わりがなかったのだけれど、最初の自己紹介で「自宅が火事で燃えたので、なにも失うものがありません」と告げた大柄の男性がいた。なんて強いエピソードを持ってるんだ、ずるい、と思ったので、その自己紹介だけおぼえていた。
なんとその大柄な男性は、後日、僕の勤務先に新人コピーライターとして採用されてきて、後輩となった。年齢も僕よりふたつ、みっつ、下だった。
その後、それなりの数のコピーライターとかデザイナーとかと知り合い、あれこれと言葉を交わしもしたけれど、「こういう勉強したからこの職に就きました」って人は少ない気がする。みんな、わりと、おかしな迂回路を通ってきている。でもそれってべつに特別なことではなくて、だれだってまっすぐ一本道に生きてなんていないのだから、「どうやってここまで来ましたか」と尋ねれば、おもしろい話のひとつふたつが聞けるのは当然なのだ。
なんてことを、専門学校の授業の資料を作成しながら考えている。学科的には僕の授業は傍流に属するので、だったら変な迂回路に引き込んでみるのもおもしろいのではないかと思う。
ここまで書いて、そっくり似た話を前に書いた気がしてならなくなったけど、でもまあいいや、と思った。おなじところぐるぐるまわるのも迂回路みたいなもんでさあ。