夜中に目が覚めて、時刻を確かめると4:44だった。不吉な数字、ということよりも先にゲーム『SIREN』のことを思い出す。あちらは「死」の一歩手前である「3:33」が重要な意味を持っていた。さておき。
子供から聞いた話。チェーンメールというか、LINEで「この画像を●人にシェアしなければ首と指を切られる」といったネタがまわったそうだ。首と指、という部位指定がおもしろくて、へえ、と思った。いずれも二文字で「くび」と「ゆび」なので、どうやって切られるのかといえば「へび」がやってきて切断するとかだといいなとも思った。よくはない。よくはないぞ。
フェイクドキュメンタリーをYouTubeなんかで楽しく観ていて思うのは、人間の好奇心は「知らない」とか「わからない」とかに起因していて、恐怖と笑いが紙一重、という指摘もよく見聞きするけれど、たしかに、知らないことに対して感じるのは恐怖か笑いかのどちらかな気がする。
と、ここまで書いて、完全に見切り発車だったなあと反省しはじめた。それで、どう話を展開していくのか?
深夜に目を覚まして、4:44だったときに恐怖を感じるかといえば、そんなことはない。まだ眠っていられる時間なんだけど、損した気分になる。6時に起きると想定したら、あと1時間ちょっとしかない。せめて2時間くらい残ってるタイミングなら、「よしまた寝るぞ」と思えるのに、1時間ちょっとくらいだと「寝てもすぐ起きることになるじゃないか」という不満の方が勝る。恐怖も笑いも起きない。ひとりでふてくされて目を閉じるだけだ。
チェーンメールの類は、まわってくることがない。「不幸の手紙」が昔流行ったことは知識としてあるものの、実際に受け取ったことはなかった。メールとかで受信したことは、あったっけな。記憶にない。そういうのも時代の波と一致しないことには経験できないことなのだろう。
いまではもう間違い電話もないんだよね、という話題すら聞くことがなくなった。間違い電話がなくなった、というより僕らは「間違い電話を体験できた珍しい世代」なのだ。人類の歴史から見ればね。壮大な話だな、おい。でもそうやって視点を変えると、ちょっと楽しくなる。
大学生のころだったか、PHSを使っていた。熊本の実家に暮らしていて、夜中に父だか姉だかの車を借りて友人のところへ遊びに行っていると、電話が鳴った。熊本城のそばを走っているところで、オレンジ色の街灯が、ほかに車のいない道を煌々と照らしていた。
電話に出ると、カタコトの日本語で話しかけられた。誰ですか、と聞くと、ちゃんと名乗られたのだけれど、どうも外国の方らしく、間違い電話であることが判明した。さらには、相手はインドネシアだかからかけてきている、つまり国際電話での間違い電話であることがわかった。
話したのは1分かそこらで、お互い、国際電話で間違い電話だなんてねえ、と和やかな空気で通話を終えた。
そのときの間違い電話の主が今のパートナーです、という話になればおもしろいのだけれど、残念ながらそんな展開には恵まれなかった。
今夜の夢でインドネシアからの電話を受けて、通話の相手が「50人に間違い電話をかけないと首と指が蛇にやられるぞ」と告げてきて、汗をかきながら目を覚ますと、時刻が4:44だった、なんてことになれば、この文章も説得力が増すのだけれど、これ説得を意図した文章じゃなかった。
無理にまとめるもんじゃないですね。