おまえが物語を覗き込むとき

metayuki
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チョン・セラン『フィフティ・ピープル』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を読み始めた。つい最近、話題になっていたような気がしていたけれど、初版は2018年なので、すでに5年が経過している。

タイトルのとおり、50人が登場する。まだ途中なので、このあとぜんぜん別の展開になっていかないとも限らないものの、ある病院を主な舞台に、そこに勤務する人や患者として訪れる人、職員の家族とか、そのさらにもうちょっと外側に生きる人とか、総勢50名のエピソードが並んでいる。

装丁のポップな印象から、内容もライトなものを想像していたところ、わりにのっけからヘビーな話だったりで、だけどひとつずつのエピソードが短いために、ああもうしばくら立ち直れない、というところまではいかない。うん、こういうことはあるよな、と、数秒立ち止まって飲み込む、そのくりかえし。手に取るように「わかる」人物もいれば、まるで「読めない」人物も登場する。この「わかる」とか「読めない」とかは読者の側の人生の反映で、大勢の人生を垣間見ながら、読者は自分自身の生活のグラデーションを作品に見ることになる。

今回、『フィフティ・ピープル』を手にとったのは、文章講座の受講生の方と話をしたことがきっかけで、これは講座でとりあげたい作品だなと思いながら読み進めている。

僕が担当する講座では、だいたい毎回、エッセイか掌編・短編を受講生に書いていただく。教える側がそんなことでいいのか、と思わなくもないが、僕としてはこの受講生のみなさんの作品を読ませていただくのがとても楽しみで、そのために講座を担当させてもらってるといってもいい。

当然ながら、書かれた作品はどれもまったく違っている。毎回、テーマを設定はするものの、そのテーマについて書くのではなく、テーマから連想したことを書いてくださいとお願いするので、似たりよったりの話になることもない。一作ごとにテイストが違うので、ひとつ読んですぐまたつぎの作品、ということもなかなかできない。『フィフティ・ピープル』はひとりの作家の手による連作なので、数秒立ち止まるくらいで次の作品へ進めたりするけれど、書き手が異なると、立ち止まるだけでなく、最初まで引き返してみたり、気になった箇所でじっくり考えてみたりと、やることが尽きない。おおげさだけれども、ほんの2000字ほどの作品でも、美術館の企画展をひとつ見てまわるような奥行きがあるもので、とても楽しい。作品によってはとてもつらい、とても悲しい、とても笑う、とても考えさせられる、とこちらの反応もさまざまになる。

文章に起こすまで、形がわからないままの感情がある。書いてみて初めて、自分がなにを思っていたのか、なにを望んでいたのか、自分で理解できる。受講生と話していて、そんな感想を聞くことが何度もあった。読む方だって同じです。誰かの文章を読むまで形がわからないままの感情がこちらにもあって、うまくすれば、誰かの文章が光になって、謎だった感情を照らしてくれる。全容が明らかにならなかったとしても、一端を垣間見せてくれたりする。

@metayuki
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