3月に入ったのに寒い寒いと子供たちが言うので、3月は寒いのだよと例年と同じ言葉を返している。なんなら4月だって寒い。
小学5年か6年の春に伯父一家とともに熊本城で花見をした晩は極寒で、手持ちのコートでも最厚のダッフルを着込んで、がたがた震えながら冷たいジュースを飲んだ。なにもそんな寒い日にやらなくても、と思ったけれど、大人たちは酒を飲んで温まったのかもしれない。その記憶を蘇らせては、3月はまだまだ寒いぞ、と自分にも毎年言い聞かせている。
花見といえば、若いころにライターさんたちが集まる花見に誘われて出かけたことがあった。自己紹介の際に自分がコピーライターであることを告げると、「あー、コピーを信じてるいい子だー」とからかわれた。根に持ってるってことではないけれど、そういうところに線引きがあるんだと知ったという意味で、よくおぼえている。
「コピーを信じている」云々は、そのころ、大御所的ポジションのコピーライターがなにかのキャッチコピーに書いていた言葉だった。いわゆる「ライター」と、広告屋としての「コピーライター」とは、言葉を生業とする点では同族なのだけれど、仕事としては別物なのだと、僕をからかった(わけではないかもしれない)人は言いたかったのだろう。その後の宴席もずっと気まずかった。あんなふうに会のスタート時点で「おまえを認めん」みたいな発言をして、そのあとも引き続き攻撃的な態度を変えずにいるというのは、性格に由来するところなのだろうけれど、それを察せずに居座った僕のほうも「鈍感」などと思われていただろう、きっと。
新入社員が花見の場所取りをやらされるということが、僕の世代にはまだあたりまえにあって、そのライターさんたちの花見のとき、周囲にはいかにも新卒ですって感じの場所取り隊がちらほらといた。僕自身は(幸いにも)場所取りをやらされたことがなく、たいへんだなあと思ったわけだけれども、でもな、その視点にも線引きは存在していて、「ライターとコピーライター」が区分けされたみたいに、僕だって「場所取りさせられる新人とさせられなかった自分」とを比較して「たいへんだなあ」などと思っているのだから、よくはない。
さておき。
ダッフルコートを着ての花見と、ライターさんたちの花見については、毎年しっかりと思い出すので、やっぱり根に持ってるってことなのだろうか。そんなことないけど、でも、こうやってぐちぐち書いてるんだから、もう素直に認めちゃえよ、とも思う。
割り切れないまんま持ってくしかない類の記憶の多さよ。